非日記
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2006年03月04日(土) や、やっと休みだー。

ようやっと休日になりやした。
が、更新できない気がする。

「面白くもないものなんか描いて書いてちゃ駄目じゃないの!」と、昔(前1〜2年ほど)は思って躊躇っていたのだが、例によって私の虚弱体質な良心だとか誠実さだとかが、労わってやっていたのに何故だか病床に就き、「おっかあはもうだめだよゴホゴホ」と言われた途端、「じゃあおっかあの年金に手ぇつけちゃれ!」という駄目ップリを発揮したわけで。
要は、「どうせ好きにやってるのに好きにやりながら好きにやることを躊躇ってなんになろうか。私に良心や良識が残されていることを誰も信じはすまい」という自棄っぱちな気持ちになってしまったわけだ。

ところが、
そうやって突然二次創作の意欲が湧いたのは良いものの、いつものように意欲はあっという間に浮気してしまったわけですね。久しぶりに優しい気持ちになって妻女に手土産を買って帰ったはいいものの、そうすると今のめりこんでいる愛人がトラ屋の栗羊羹を好物にしていたことを思い出してしまったのであった、というところだ。古女房への若き日の愛が蘇ると同時に、若き日の肉欲も蘇った感じ。

全然関係ないが、普通の小説では性行為の描写は実に淡々としているよな。実にあっさりと当然のように行為にいたる。ポルノ小説でない場合は、数行で終ったりする。一語で終わることもある。ロマンス小説でも、長くて二三ページというところだ。
ポルノやなんかを立ち読みしていると(そんなもの立ち読みするな。自分では勉強せねばという思いで恥がおろそかになる)、めくってもめくっても依然として行為中で「よくもまあこれだけ長々と書いたものだ」と、やたら本の厚さを気にしてしまうが、普通の小説で一行で終ったりすると、必要十分なんだが、それはそれで寂しい。
かといって、私は女だからかポルノ小説は全然面白くないんだ。
最初は面白いんだよ。最初は。途中でひたすらタルくなってくる。特に男性向けの内面描写が殆ど無くて連綿と行為が続くやつは、なんかもう「これはマラソンか何かか?」って感じだ。肉体疲労時の栄養補給になんだかわからないが「何か良いもの」が途中で欲しくなる。読みきろうとすれば忍耐を試される。

私はマラソンの中継の何が楽しいのかよくわからん人なんだ。それもあるかもしれない。後で「途中でこんな駆け引きがあった」等と言われれば、「あー、そんな面白そうなところがあったんなら見ていればよかった!」と思うんだが、大体は眺めてても、ただ並んで走ってるじゃろ?解説があるからこそ辛うじて耐えられる感じよな。あれをアナウンサーや解説者の喋り無しに無音で流されたらどうだろうかと思うよ。
それは私がマラソンの駆け引きのなんたるかをわかってないからなんだろう。
それは暫く前に銭湯で何気に見たマラソンの1シーンと、その夜のニュースでの解説を見て思ったんだが。

昔読んだ小説で、匂わせて比ゆ的に始末してる部分があって、まだ潔癖であった私にはそれはなんだか嫌な感じだったんだが(露骨に表現せずやたらに比ゆ的で「隠す」というのが余計に嫌らしい感じだった。色っぽいというのではなく単純に嫌らしい)、後に自分でも書いてみるようになって思えば、あれは作品の雰囲気をそこで一気に破壊しないようにという苦肉の策だよという気もする。肉は切らせても骨は守り抜くというか。
バランスが問題なのよな。
カップリングを推す二次創作なら、どうしても(別に性行為に限らず)「やり取り」をできるだけ長く入れたい。それが欲しくて自家生産しているんだ。ところが、それを長くすればするほど、バランスが狂ってくる。本来なら、物語の流れを崩さないのなら、そこはさらっと済ませるべきところだと思われる。しかし、さらっと済ませたくない。なんでさらっと済ませにゃならんのじゃ。さらっと済ませて気が済むなら、誰も、というか私は書かない。原作でいつもさらっと済ませられて気が済まなかったからこそ、無謀な捏造に走っているのだ。
さらっと済ませたくない。無駄に長くしたい。しかし無駄に長くしては何がなんだか自分でわからない。なんだかケツの座りが悪くて気持ちが悪くなってくる。しかし長くしたいんだ!長くさせてくれ!やめろ、もう何がなんだかわからんくなってきた。ほら、そこで止めておけば、そんな事言い出さなかったのに!この始末をどうするつもりだ!ああ、ホラ!ホラ別れちゃった!くっつけようとしているのに、引き離してどうする!?

いや、くっついてもいないのに引き離される器用さが、二人が好きあっているという事を暗に鋭く示しているのだ。引き合う強さで反発するのに違いない。私はますます二人を何がなんでも意地でもくっつけるべきだと確信した。どう考えても不自然っぽいが、その不自然であることが実は自然なのだ。そのためには手段を選ばない。私は希望をもって気長に取り組む事にした。
たとえどれほどにすさまじい大風呂敷が必要であろうとも、二人をきゅっとくるんでしまえるなら私に否やは無い。まるでカップりんぐが全く不必要であるかのような大風呂敷であろうとも、実は世界は二人のためだけにある。それはまるでプラパゼータのように!

そんな馬鹿な。

脱線したが、
そういうわけで私は、いつものように一人で遊んでいたわけです。
今、ちょっと気が済んできたところだ。意地でも完結させるまではウダウダ書いてるだろうが。

一年に一回か二回猛烈にSSが書きたくなって、「これを書いてどうするというのか」と甚だしく思いながら寝食を惜しんでPCにかじりつき、長ったらしいのを一本あげ、一本では寂しいので数本短編をあげたところで、「せっかくだから」とどこぞでスペースを取ってサイトを途中まで造りながら、どこかへ登録する前に「駄目だ、とても更新(+管理)なんてできるわけない」と全部削除してしまうといういつものあの行動パターンだ。わかっているのに繰り返すんだなあ。
ここを一つ持ってる所為で、そしてこのン年にわたる経験で、自分にはとうてい出来っこないのだとわかってしまってるところが悲しい。マメに、あるいは定期的に更新できるテキストサイトさんは本当に凄いと思う。
私は一本か数本に全部の思いを叩き込んでしまうと、それで暫くは自分の中のそれが虚空になり、虚脱状態になってしまうのよな。文章は特にそうだから絵の方がまだ何も考えて無くても描ける。いや、本当は何か考えて描かねばいけないのかもしれないが。


だけどやってる最中はものすご楽しいのよな。
ただやってる最中でも、自分でも「なっとらん」事はわかってる。いつも前よりはマシなものマシなものと思うんだが、才能というやつがないようだ。
何より私は小説を読んでいて、何が面白いのか分からん時が多分にあるぐらいだ。
それに加えて、書いてみれば、自分がいかに言葉を知らんか思い知る。「こういうのを端的に表現するズバリの単語があったんだよ!アレ一語で表したいんだが、アレとは何だ?」とは思うものの、いつも斜め読みしてるのかさっぱり思い出せない。
それで私は文字を書き始めると小説を読み始めるんだ。読んで探す。気の長い話だ。

ところで、日記を書く手も惜しむほど文字(ほもほもしいパロ)を書きたくなったのは、また例によってイバラ道で、殆ど取り扱いが無く飢えかつえているだけでなく、その頃なにげに読んだ文芸評論もどきが自分的ツボをどつかれて面白かったからだ。が、それから、ではどう書けば良いのかもあって無性に小説を読みたくなってきた。読んでみたら読むのが楽しくなってきて、ぶちぶち読んでいた。

子供の頃から物語半分、物語じゃないものを半分ぐらいで読んでいたが、どこらへんからか特定のもの以外で物語を面白いと思わなくなってしまった。
たぶん私は、昔から単に文字を読むことが好きなのであって、別に「物語」を読むことが格別好きなわけではなかったんだなあと、いつからかがっくり思うようになったんだ。思い返してみれば、最初に本を読みはじめた頃は幼稚園児ぐらいで、親の本棚から適当に引き抜いては読める平仮名のみを拾い読みしていた。別に内容が面白いわけではなく、読める文字がある事が面白かったんだ。
そういう性分なものだから、文字を書く(打つ)事も、別に書きたい話があるわけでもなく、書く(打つ)事自体が楽しいわけで、物語もへったくれもない。できるだけ長いことずらずらと打っていたいものだから、できるだけ長い物語にする。そういうわけだから、これでもかと面倒な問題を提起し、途中でにっちもさっちもいかなくなって破綻するというわけだ。

そういう調子なものだから、小説を読んでいても、何が面白いのかわからないで読んでることが多々ある。それで小説を読むのを止める。ところが小説にしか登場しない表現や言葉というものがあって、それが知りたくってまた小説を読み始めたりする。最近は一人称を倦厭しており、口語的には使用しない言葉がやたら使ってあるやつを選ぼうとする。本屋に行って、何か小説を読もうとなると、めくってみて一人称は却下だ。面白そうでも一人称は却下。

ここで二次創作は別物だ。二次創作は求めているものが違うので、文体や作法に好き嫌いは無いような気がする。二次創作はなんかこー、めくるめくよ。ありゃなんなんだろうか。

なぜ三人称を求めているかというと、ここ三年の私は三人称で物語を書く事に憧れがあって、嵌まっているからだ。三人称で書きながら、どのように人物の複雑な心情を表現するのかが気になって仕方ない。
そんで読む。読んで、その複雑な心情を絶妙に表現されているラシキ部分が味わえなくて、自分にしょんぼりする。
西に素晴らしい作家がいると聞けば西で自分にがっかりし、東に素晴らしい文章書きがいると聞けば東に走って自分にがっかりする。わからない。そのよさが味わえない。その文章にどのように心を動かしたのか、どのように理解し、解釈したのか、そこらへんを馬鹿な私にもわかるように平易な言葉で熱く語ってほしい。構成が素晴らしいと言うなれば、どのような構成になっていて、その何がどう素晴らしいのかを逐一講釈垂れて欲しい。万事その調子だ。
なんでこんなに頭が悪いのだろうか。

そこで、先の文芸評論もどきは、そんな私のアトピー性皮膚炎のように痒いところに手が届くもので、とっても素敵だった。一文一文、地の分を抜きだして、「ここがこうだ」と解釈をかましてくれる。「精緻に読み込まれ、尚且つこれまでに無い独自の画期的な解釈」らしいが、これまでなど知ることのできない私には、そんな事はどうでもいいのだ。ちょっぴり、その「これまで」がどのようなもので、その「これまで」とどこがどのように異なる解釈なのかを懇切丁寧に説明して欲しいが、カバーの帯にそこまで期待することはできないだろう。
とにかくもおかげで小説を読みたくなった。素晴らしい評論だ。

それでもたまに、面白い気がしてくる時もある。
昨日は、登場人物の行動にやたら感心した。
読んでいた短編の中に、老いた元娼婦が出てくる場面があった。鉄火肌でなかなかブイブイやっていたのだが、老いて貧しくなり、今は裕福になった昔の客に金を無心して回っているのだ。そんな事をしていれば当然のように、やがて殺害されるわけだが、その強請り始める(強請りを考え始める)きっかけになったのが、ふと道端で昔の客に出会ってしまった事だ。
そのときには彼女にはまだ羞恥心があり、顔を伏せて「お久しぶり」とさらりと逃げようとした。ところが相手の方がビビってしまい、「これをやるから付きまとわんでくれ!」と金を放って逃げ出した。それで彼女はあっけに取られ、何をわざわざ要求しなくても、自分が顔を出すだけで、相手が自分の口を塞ごうと躍起になって金で片をつけようとする事に気がつくわけだ。

この最初の出会いがしらの彼女にやたら感心した。
「げ、ヤベ」と顔を合わせづらく思いながらも、惨めさと羞恥を耐えて一応は挨拶するというところだ。私なら、さっさと電柱の影に隠れるね。この社会的に優れた態度をとった事を、相手がいきなり誤解したことが発端になるわけだ。ここでもしも彼女が、その人間の小ささを「愚かなり」と微笑んで済ますようだったなら、後もただ惨めに貧しく孤独に、しかし清らかに死ぬだけだったのだろうが、「なんとまあ、そう来るか!」と驚いたために、巡り巡って惨殺される事になる。
私は自分の心が人並みはずれて狭いので、そんな事があった暁には、早速にも「自分が存在する(した)ことは抹消したいほどの事か。ということは、相手によっては顔を見せるだけで殺されるやもしれぬ。おお、やばいやばい。危ないところであった。これを教訓に、よりいっそうこそこそと生きねばならぬ」といきなり命の危険を感じるだろうが、彼女は顔を合わせたくない相手にも礼儀正しく挨拶するような人品に優れた人間であり、その程度の事で殺意をもよおされる危険を案じるなど夢にも思わぬ気性の良い人間だった。
全く、こういう気の善い人間が身にこなれていない悪賢いやり方に手を出してはいけないね。察する及ばずだ。

が、それはそれとして、惨めになろうとも礼を失っするまいというのは素晴らしい姿勢だ。私は感心することしきり。


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