非日記
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2005年11月20日(日) 朝が寒い。

某名前も知らない朝だけ知人と、毎日「寒すぎですよね!」「寒すぎますよ!」という会話で盛り上がっている今日この頃。


先日、日記を書こうかと開いたら、下の広告欄に<頑張○ても痩○ないアナタへ>と書いてありました。
何かを書こうと思ってあけたはずだのに、一瞬で忘れましたね。
ああん?人は眠いのに、ナニそれどーいうイミかにゃ?キミは何が言いたいのかな?つまり結局のところ何が言いたいのかね?何を申し上げそうろうしたいのかね?私には「おまえは太っている」という意味にしか受け取れないのだが、それは広告としてどうなのかね。もう少し深く突っ込めば、「おまえは痩せねばならない肉体だのに努力もできない腑抜けだ」とかそういうニュアンスを表現したいのかなあ?
この広告をクリックしたら、「諦めれば?」と、スレンダーなおねえちゃんがにっこり笑って言う写真が出てくるんだよ、きっと。クリックなんかしなくたってアタシにはわかります。

日記がここまで(↑)書いてありました。
ええ、夜は私の時間です。広告の言いたい事を相手の気持ちになって理解を試みてあげようという積極的な優しさの余力が無いねんな。なけなしの優しさと思いやりは昼に大方使い果たしてるんだよ。先日、職場の御方は(職種は違う)、「でも!私達だって人間なんですよ!」と熱く語っていたが、私もそうなんですよ。その意味は「相手が私達を人間として扱わないから、私達が相手を人間として扱う事に苦痛を覚える」です。私達だって人間です。だから人間の相手をしようって気にもなるんですよ。人間を人間のように扱わないのもまた人間らしさの発露とも言える。
別に共食いは人間だけに限った話ではないが。


また「○い」をして行間を埋めようとかしている私がおり、「いけない!いけない!」と思いながら、やってしまいました。
「BL○い」です。
いつものように、まず人身御供に他人からします。他人様は「クールな数学教師」だそうです。実にエロい感じですね。クールなんてエロの代名詞ですよ。数学教師なんて、まっこと卑猥な感じです。数学と教師がともに卑猥なイメージです。私がまだ可憐な女子高生だったつい先頃は(←問答無用)、…というか、どうして女子高生である間は自分が女子高生である事を忘れているんだろうね。卒業した翌日に本屋で成人向き男性向けエロ雑誌の表紙を見て、「自分は昨日まで女子高生だったが、今日は女子高生ではない」という現実に気がついたことがあります。実は女子高生とは、女子高の高校生という意味でしょうか?私は女子の高校生だと思っていたんだが、その辺、男性的にはどうなんだろう?女の私の方からすると、「男子校生」というと、男子校の生徒という感じがするんだが。
私の付き合いと経験からすると、女子高の方が共学より女子は破廉恥なんだが、男子にはドリームがあるかもしれん。後に病院勤めになった元同僚が「僕はナースへの夢を破られました。ナースにはスケバン(ヤンキー)と修道女しかいない!」と力説していましたよ。修道女といっても煩悩をくすぐるような清楚タイプではなく、ガチガチのミンチン先生みたいなのらしいです。それはそれで萌えるんじゃないかと思うんだが、彼はもうちょっと流され上手のなびきやすいのが良かったらしい。頬とか染めるような。

それはともかく、私がまだ可憐で清楚で愛らしかった女子高生だった、ほんの先ごろの話ですが(ツッコミ不可)、その時分の数学教師は髪がバーコードで妻子もちで趣味は囲碁将棋だったが、その外見はともかくとして性質は受け受けしかったものです。私の机の前に膝をついて、「数学なんて人生の何の役に立つんだろう?」と自分の職分に煩悶してましたから。後、「○×(←同級生の女子)が最近暗いんだけど、なんか知ってる?」等と訴えてきてましたから、かなりの受け度でした。

そんな私は、「眼鏡の似合う鬼畜センパイ(よく覚えてないけどそんな)」でした。んん?眼鏡は外したほうが良いと言われますよ。鬼畜じゃあないと思います。アタイは優しいオバサンですよ。
職場でもよく「矢口さんが私を苛めるんです!」と苛められています。「矢口さんの態度が悪いです!」とか「矢口さんにヤル気が見られません!」とかそれはもうよく苛められています。
こないだも、「矢口さんの真似〜☆」とか言って妙な物真似をしていました。割りにポイントを押さえていたと思います。まさに私が心のコスプレをして遊んでいる時そのものの振る舞いでした。私も大人なので、てゆうか一応いくらも年上だし事実だしムキになってもしょうもないので、「確かに、私はそんな感じかもしれません」と素直に同意しておきました。
私「どうやら人には私にヤル気がないように見えるらしいんです」
人「見えます」
こんな風に日々苛められています。年上どころか年下にすら苛められている私。大学の教授も「僕を苛めないでくれ!」とか言って私を苛めました。失礼にも程があるってもんです。私には五六十の美形でもないオヤジを苛めるようなひん曲がった性癖はありません。私はこう見えても現実ではスタンダードにストレートです。可愛い女の子と綺麗な男が好きです。
いつもいつも「あんたのせいよ!」と皆に苛められながら生きてきました。そんな昔から一貫してイジメられっ子の私が鬼畜生のわけがありませんね。人間に足りない畜生ではあっても、鬼ではありません。
こういう○いをすると、自分が「そんな人間ではない」事がわかって癒されます。

そういえば、先日のぱーてぃの折に取った写真を渡されました。ぱーてぃーとは言ったものの、こういう会社の何かの記念で集まらせられるような集会は、本来総じて何と呼ぶものなのかしら。普段顔も拝まないどころかパートに毛の生えたような下っ端は名前すらよく知らないようなのがやってきて人の心を欠片も動かさないようなつまらない演説こくのを神妙な顔でありがたく拝聴し、強制で来させられている人間を目の前にして「これだけの皆さんが集まってくださって感激です」みたいな事を恥知らずにも口走るのを黙ってスルーせねばならないようなやつは?
写真は大嫌いです。
写真を撮ってた人と個人的に会場で鉢合わせして私しか写ってないのがあるので、ソレはいくらなんでも受け取らねばならないだろうと引き抜いたが、見るだに嫌になります。もうね、なんていうか、私は要するに写真が嫌いというより単純に自分の顔が嫌いなんだよ。美醜を超越して単純に嫌いやねん。私だってマトモな美意識というかマトモな感性があるので、いくらなんでも自分の顔がエレファントマンやハエ男やフランケンシュタインとやりあえるほど不細工だとは言わないし、そこまで凄まじいばかりの造作ではない事はわかっているんだが(いっそそうだったらソレを売りにできるだろうし、人も切々と語らなくても私の写真を嫌がる気持ちを察してくれると思う)、見た瞬間に思わず眉間にしわを寄せたくなる、顔をしかめてしまうような「醜い!」という鋭い感覚と生理的な嫌悪感を拭うことは自在にはできないわけで。
そこを人はわかってくれないよね。
鏡はそうでもないんだよ。極まっていた昔は、ふと顔をあげて鏡に映った自分の顔を見た瞬間に嘔吐した事も無いでもないが、基本的には鏡で見る場合はそこまで顕著ではないんだ。もしそうだったら、日常に支障が出る。身なりを整えることすら苦痛になるだろう。いや、身なりを整えるのは得意ではないが。
幼少期から自分の顔を鏡で眺めては「いくらなんでもそこまで酷くはないだろう」と自分で思って自分を鼓舞してた所為もあるのか、基本的には鏡に映った顔はそこまで醜悪に見えるわけでもないんだ。ところが、これが写真となると桁違いに醜く見える。正直に素直になれば目を背けたい。自分でも不思議だ。
自分で「私はブスだから」という人も多いが、はっきり言えば、世の中には美人の方がはるかに少ない。しかし私にはそういう相手が美人だとは思わなくても、醜いとは思えない。なんたって、言語道断に醜い顔を知っている。自分の顔より醜い顔の人間にはなかなかお目にかかれない。というか、いまだかつて自分より醜い顔の人間に巡りあった事はたぶん無いんじゃなかろうか?「この顔嫌いだな」とか、「不細工」と思う顔はあっても、目を逸らしたいほどの醜悪さを感じる顔は無い。
私が「凄いブス」とか「すごい不細工」と思うときは、大抵、顔の前に人間が嫌いなんだよ。笑おうが泣こうが怒ろうが忌々しいだけの。それでギャアギャア怒っているのを直視しながら、「結局、私は要はこの顔が嫌いなんだよね。どうしても好きになれないんだよ。見てこれ。本当に不細工よね」と大抵まるっきり他所事を考えていて、また「聞いてんのか!?」と怒られる。「すいません、あんま聞いてませんでした。本当にあなたの顔は嫌悪や憎悪を極力排除して平静な気持ちでしみじみジックリ眺めてみても、いかんともしがたく顔が悪いなあ。この顔をどうしても私は好きになれないんだよなと真剣に思っていました」とは正直に言えない。

心因性で自分の顔が歪んで見えてるわけではないのは、高校の時の美術で自画像を描いたときに教師が「えー?ここはこうじゃないだろ」と言って筆を取り、筆を入れようとして「あれ?確かにこうだな」と修正できなかったほどなので確かなんだ。私は自分の顔を物凄く精確に正確に見てる。美術教師すら手を入れられぬほどのコンマの狂いも無い精度で、冷酷なほど精確に見ている。正確に見てるんだが、それがセンスの上で醜く感じるのよ。それは単純な好き嫌いと同じなんだ。この顔が好きとか、あの顔が嫌いとかあるだろう。あれと全く同じなのよ。つまり、動かしがたい美意識とセンスとして消化されてしまっている。
気のせいか、写真になると醜さが強調されてるんだ。もうどう言えばいいのかわからないが、とにかく物凄く嫌な感じだ。
人だって自分の嫌いな顔の人間の写真をわざわざ集めたくないだろう。
だから私は自分の写真が嫌いなんだ。本当は撮るだけならまだいい。永遠に私に見せないなら別に撮ったって良いんだよ。というかね、皆がきゃいきゃい言いながら楽しく写真撮ってる脇に引き下がって、「ねえ写真撮ろうよ!」という誘いに「嫌だ!」と答え、楽しい気分に水を差すようなマネをせずに済むなら、よほどその方が良い。付き合いが悪いとか気取ってるとか間違った認識を甘受してもなお、写真を撮りたくないんだ。撮った写真を皆で和気藹々と見て楽しく過ごしてるときに、なんともいえない寂しさを感じてもなお、自分の写真を撮ってそれを見る事に比べれば容易く耐えられる。
もういっそ自分の顔を半分ぐらい焼こうかと追い詰められた若かりし頃に比べれば、まだ融通が利くようになったが、それでもやっぱり嫌なんだよ。
たぶん、私に見えるほどには人には醜く見えてはいないんだろう。それはわかっている。もしそうでないとすれば(私に見えるのと同じように見えているとすれば)、「写真撮ろうよ!」と誘ったり、写真を撮ってるところで「矢口さんもはやく入りなよ!」と声をかけてくるのは、凄まじい悪意を感じる。「こないだの写真できたよ!はい、矢口さんの分!」と持ってくるのは、嫌がらせを通り越しており、湯煙殺人事件的殺意を感じる。探偵役が私がどんな風に殺害したかを得々と説明している間、風に吹かれながら遠くを眺めている時の気分が想像できる。殺人を犯したことに良心の呵責も悔いもない。ただ、もしもがあるならば、この道行きを望んだわけではない。それはたぶん口にすれば言訳になるだろう。罪から逃れようとしていると思われるだろう。だから矜持が言わせない。「どうして!?」と問うので、言わない。それは、私の方が問いたかった。山川さん(仮名)、私は、あなたが羨ましかったわ。どうしてと臆面も無く問える、その、あなたの正しさが羨ましくて、憎らしかったわ。私にも…、そんな時があった…。菅田(誰?)を愛するまでは…。
行きましょうか、刑事さん。

しかしそういうわけではないだろう。それで私も山川さん(仮名)から逃げ回らなくて済む。それが理性というやつだ。


やぐちまさき |MAIL