非日記
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映画のサントラ聞いてる。 <ムーランルージュ>の♪EL TANGO DE ROXANNE♪が好き。かなり好き。映画を見た時からすっごい好きで、これと、ユアンマクレガのユアソングが欲しくてサントラ買ってしまったのじゃ。 緩急があり、コーラスがあり、それぞれ別々に勝手に歌ってるのを何本か縒り合わせて一本の太い綱にしたような、いかにも私が好きそうな奴なんだもの。それに、タンゴが好きだしな。あのキュッキュッって来るのが良いのよ。 「物語が急速に悲劇に向っていくのを暗示するような」と解説に書いてある。ああ、私、物語の悲劇はあまり好きでないのだが、曲の悲劇的な曲調は大好きなのよ。 <ムーランルージュ>は悲劇なのか良くわからないが、最初にパチパチ打ってる悲劇的で悲愴な感じの「怒りをこめて振り返れ」な勢いのところから、思い出しつつ、毎度思い出しては笑ったり悲しんだりしつつ、最後、力技で無理矢理ハンマー上げしていくような感じが良いんだ。そんで耐久「…3、2、1、勝った!」でダンと重石を落とすような(笑) 話はごっつスタンダードなんだけど、確かに良いよ、あれは。神話やシェークスピアのように普遍的な匂いがする。「人間はいかにして悲劇に立ち向かい、それを克服するか」って雰囲気がするのよ。だから結局、私には悲劇なのかわからない。後味が良くて。
指輪王> しかし感想は<王の帰還>を書こうとしていたのだったわ。
出だし、スメアゴルを見てビックリ。指輪を見た途端、まだ触れてもいないのに、いきなり「私達」と人称が複数に化けるんだもの。あまりにも速すぎる感じだ。あれは何か思うところが普段からあったに違いない。
「二つの塔」よりは、上手く流れていたと思う。原作も「王の帰還」は割りと読みやすい流れ方なのよな。黒門まで行って先頭になるまでを先にやってしまってから、モルドールに入ってからのフロサムの方にうつり、その時分に何が起こっていたかをちょくちょく入れられ、読んでる方としても「サムとフロドは急がなければイケナイ」感じがムラムラする。「行かなければ。歩かなければ。滅び野山へ向って一歩でも先に進まなければ」という感じが。 ああ、私は、「読まなければ。読み進めなければ。一行でも先に!」と焦っていた所為もあるんかもしれないが(苦笑) その気忙り感、疲労を押してジリジリ進んでいく感じは、原作の方が良かったきがする。
ちなみに私は、フロサムの道中記を読みながら、某大学主催の某90キロ貫歩を思い出した。私は参加した事はないんだが、参加して戻ってきた「普段あまり歩かない人間」が、ものすごく面白い状態になっていたんだ。陸上部などは走破するらしいが、普段歩かない人間は足の裏が全面水脹れになり、校内を暫くロボットのようにヨチヨチ、キコキコ歩いていた。 それに、その参加経験者に聞いた「どこそこまでは全然平気で楽しい。どこそこあたりから辛くなる。どこそこで一度座りこんだ者はもう二度と立てない。だから立ったままで休憩するように言われる。どこそこからは気力のみで歩く」等という話だとか、思い出した。
指輪を捨てた後、フロドとサムが座って話してるところがタイヘンおかしかったわ。 某姐さんが「サムフロではなくてフロサムだよ」と言ってたが、確かに。 死を覚悟したサムが「ロージーと結婚したかった」等と感傷的になっていると、フロドが横から「おまえがいて良かった」みたいな事を(しかも肩を抱きながらだったような)言う。私の幻聴では「ロージーは忘れろ。私がいるじゃないか」と聞こえ、「うっさいッ!フロドでもロージーの代りにはならんのじゃーッ!」と、私ならキレてビンタをかましてしまうところかもしれない。止める間もない神速と称えられたアタクシのビンタを見よ(注:もう二十年以上、生物にビンタをかました事は誓って一度もありません。幼少期の話だ。暴力反対) サムの切ない顔が切ないよ。 サムが不憫でしかたない(笑)
原作ではサムがホビット庄の思い出や何やらを「思い出せますか」と一生懸命言い、自分はそれを縁にしていくのに対し、フロドが何度も「水の流れも木々のざわめきも皆の顔も、ホビット庄での生活が何一つ思い出せない」と繰り返すのが印象的なんだよ。 だから「自分達はホビット庄を守った。だから代りに失わなければならない者がいる。それが自分だ」と西方行きをフロドが告げ、サムが納得するのが納得できるんだが。 映画でボケっとしると、「フロドが西行きの船に乗るのは、きっとサムに失恋したからだね」と思わされるわよ(苦笑)
原作では、ホビット庄に戻ってみたら恋焦がれていた故郷はズタボロなのよな。それがえらくリアルなんだが。 それに、サムがロージーのところに行くと「何しに来たんじゃ。フロド様のところに居ろ」と怒られてションボリし、付け加えて「終わったらすぐ戻って来てね」と言われるところ。これは確かに結婚するね。萌える。可愛い。
ちなみに、人が言うには、キリスウンゴルの塔のところで、黒の乗り手がギャーギャー言うのが高音で壮絶に煩かったらしい。私は気持ち良くて興奮した(笑)私には高音という感じじゃなかったわよ。高くて済んだ音は駄目なんだが、濁っていたからかな。
セオデンとメリーとピピンは原作の方が断然良かったです。 「まあ普通原作の方が良いものよ」と言われたが、ああん、だってそういう問題じゃないんだもん。 だって、セオデンの死に様が…。 「黄金館の主人をエオウィンに」って、そこは、「王位をエオメルに」と言うべきところでは。兄ちゃん無視されちゃったよ(苦笑)思いっきり切ない。
何か日本の歴史小説で、行方不明になって謀反人と疑われた当主がおり、当主が背いた罪でその跡継ぎの息子は処刑され(実は友人が逃がしているんだが)、当主が不在になった為に藩の者が誰に従うのかと混乱するのよな。その動揺を鎮める為に、引退していた当主の父親が「自分が当主の代行をするが、万が一当主が生きて戻った場合、当主が自分と二人になって権力が二分し、藩が混乱するだろう。よって自分は当主には戻らない。あくまで代行であり、決定には合議制をとる」という日本初の議会制度をとる決断をするのよ。
「跡継ぎが不明になる」というのはよほどの事なんだなと思った覚えがある。それで、セオデンが「自分はこれで最期だ」と判断したら即座に、後継者を名指しで指名するのに感動したんだ。自分が死ぬ事に対して感情的に云々する前に、自分である前に「王」が死ぬ(不在になる)という事が家臣達にとってどういう事なのかわかっているところが「さすが王様だ!」と感動したんだ。 誰の言う事が正しいの云々行ってる場合じゃない戦場のまっただなかで、突如結局誰に従えば良いのか不明になると混乱するものな。 ガンダルフが「(デネソールに比べて)セオデンは親切な老人じゃが」みたいな事を言ったように、セオデンは武勇に於いても知力に於いても群を抜いて優れた王であったかどうかはわからないが、だが確かに宣誓するに足る王だった感じがするだろう。王族として生まれ、その事を忘れず、自分のできる精一杯をやったのだろうと。 それだのに、映画のセオデンったらん(苦笑)
まあ原作での、「エオウィンはどうしてるだろう?もう一度顔を見たいが、こう遠くては」みたいな事を言う、実は真横で、当のエオウィンが重症で倒れてるってのが悲劇的な匂いがするんだけど。
そう言えば、原作者はイギリス人だったと思うが、その古の価値観と倫理観とイギリスにおけるエリートの意味がよく見えるかもしれない。当主がみずから戦場で傷を負った兜や鎧を、義務を果たした誇りの証として家宝とするようなところ。 「やられました」という証拠でなくて、「やられるようなとこに居た」という証拠なのよな。
「貴族は危急の際、自分の財産を倉が空になるまで領土の民に分け与え、ひとたび戦争になれば、誰よりも先に戦場へ向い、最も戦闘の激しい場所で先頭で戦わねばならない。その過酷さに比べて報いは少ないが、魂に報いがある。それは貴族としての誇りだ!」という、「我が子をエリートに?冗談じゃない。そんな鬼みたいな親にはなれない。可哀想すぎる。そんな立派な人間になどならなくても良い。普通に幸せになって欲しい」みたいな。 人が遊んでいる時にも勉強したりして苦難に耐え、エリートは財産や権利など大きな報いを得るが、しかしそれは「人に分け与える為のもの」で、地上で自分が得るものはないんだ。 日本では違うんだが、「エリート」の本来の意味はそうらしいのよ。だからエリートは自身がエリートである事を胸をはって誇りにするわけよ。苦難に耐えて報酬を得たからではなく、それが自身の為ではないからだ。 そういう価値観があるらしいよ。 スヌーピーの本を読んでたら書いてあった。
ん?それで、「無冠の者が王になる」なのか? 「冠があってはいけない、冠が乗ってるはずがない」わけか。
たぶん、それで、「良いのかおまえ?そんなところに居て。ほらだから言わんこっちゃない、誰よりも先に死んでるじゃないか」みたいな事になってるんだろうな。指揮官だのに先頭に立って我が身を危険に晒してるのはアホなんじゃなくて(苦笑)、誰よりも危険な位置にいる事が義務であって誇りだからなんだろうよ。 それを考えると、原作でデネソールが一人残った息子のファラミアに最も危険で生きて戻れなさそうな戦場に行くように言うのも、一概に「ファラミアはどうでも良い」という気持ちとは言い難いんだが。「ファラミアが自分にとってどうでも良くはないから、行かせる」ともとれるんだけどね。
ああ、映画は、言葉がないね(笑) 「すごかったでしょう?デネソール」と言われて、全くだーよ(笑)
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