非日記
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「げにって使う?」と問われ。使わんでもない。とくに副詞でなら。 辞書をひく。 「よかったー。あなたんとこの方言かと思ったのよ。古語なら良い」 何故。しかし私は助動詞としてはあんまり使わんよ。助動詞としてナチュラルに「げな」連用形を使うなんて、古風を通り越していっそハイカラだ。
それに、我が田舎のあすこは自他とも認め、出身者が揃って目を遠くやりながら 「「私は」好きなんだけど、人にはすすめない土地だよ?」 「そうよな。「住んでみて。良いところよ!」なんて率先してすすめはできんよな」 「そうなの。他人にすすめるにたる理由が一つも無いのよ」 「好きなんだけど」 「そう。好きなんだけど」 と薄く笑いあい、お国の違う友人同士で郷里の話になった際には、他意も無く頷くばかりで人の話を聞いていたような<目くるめくド田舎>なのだ。その話題であの国のものが黙りがちなのは、他所の者ほど「田舎で最悪」と言うほど全く嫌っておらず、どっちかと言うと好きなのだが、しかし好きな理由として人に説明できるような明らかな事象が一つも思い浮かばない凄まじい地味さかげんのせいだ。ただ、同郷の者同士だけになれば、 「私は、好きなんだよ」 「私も。私は、好きなのよ」 と「私は」部分を無闇に強調しながら、その殊更強調している「私」部分に共鳴を感じ、その話題において「私」部分を強調してしまう心境が互いに同じ心持ちによるものである事をひそやかに確認してさらに同郷の好を深めあい、 「そうなのよな。あそこは「私は」になるのよな」 「そうなるのよ」 と言葉を越えて能弁に頷きあって、複雑な心境で笑いあうような、そういうお国なのだ。
まあ、私が今住んでいるような、田舎にいくと「近代以降もはや発音しなくなった音をまだ発音できる人間を発見できる」などと言うほど隔離されていたわけでないが。ただこう…、あそこは何故か皆「都会に出て行こう」という進取の気に乏しい上に、だからといって地元民という繋がりが緊密で、一度都会に出て成功したものが田舎の仲間を都会に呼びよせて引き立てるとか、そういう事もまるで無いところなのだ。思い至ってみれば、もしかすると、しんしんと(我も通さないほど)徹底した個人主義なのかもしれない。
なにしろ、県民の一番大好きな大人気スポーツが「マラソン」って…、何か間違っていると思われる。 「皆でしようよ!マラソン!」 て、君たち、何か違う事に気づかないのか(苦笑)マラソンは、あれは絶対に個人種目であって断固「皆でする」もんじゃない。仲間内数人でやろうったって、競う相手も無く練習でもなく、駅伝を楽しんでいる姿など見た事無い。てゆうか、それは傍から見て何をしているかに気づく事ができるだろうか? ここで、仮定する。 どこからともなく走ってきた者が、さっきから何かよくわからないが、ぼんやり立っていた者にタッチする、と、タッチされた方はそのまま無言で走り去り、タッチしたものは肩をあえがせながら満足げに後ろ姿を見送っている。 一体それを見て、果たして誰が「楽しそうに駅伝してるんだな〜。青春だね」等と納得するだろうか。十中八九「?」と意味不明だろう。きっと自分達でも、自分達は何をしているのか意味不明だ。 マラソンをする為には、どうしても大会を催さねばならないのだ。だが、彼等はそれを苦もなくやってのけた。マラソンというものの「要は走れば良いのだが、途中で走れなくなったら歩いても構わない点に加え、楽しくイッショに走っても良いのだがイッショに走ってる相手は単にイッショに走ってるのではなく、気持ち的にはどうあれ、スタイル的には互いに競っている事になっている点で、ランニングとは違う」というスポーツとしての本質に迫り、距離・時間・必要な人数など気軽に出来るものではない、普通は陸上部と体育の授業ぐらいでしかしないようなネックになる、そのものの本質に迫る重なる難題を常識を翻す事でアッサリとクリアしてきた。 つまり、「気安く大会を開く」ようになったのだ。
冷静に見て、事あるごとに、マラソン大会をしている。大きなものから小さなものまで、年間行事としての伝統的マラソン大会の開催回数は間違いなく全国屈指。抜群の一位かもしれない。何か良い事があるとすれば早速、それを名に冠した新規マラソン大会をぶちあげる。 …と、その筋では有名な「一大マラソン帝国」で、他県に暮らすものから見れば、その県民は明けても暮れてもマラソンしているように思え、だのに「全員が燃え上がって一生懸命走ってるわけでもない。どう見ても、気安くマラソン大会を開き過ぎ。割りといい加減に走ってる」ってぐらいの、よくわからない変な国だ。
地元民もみずからがマラソンに夢中である事に気づかないが、調べてみると事実はそうとしか思えない回数のデータを弾き出すので、聞いてみれば、「そういえば…妙に走っていたような気もするが、他所もそうじゃないの?」なのだ。役所が先頭に立って、イベントといったら「マラソンもするか」と付属する事を忘れず、スポーツ大会と言ったらまず「マラソン?」と思い浮かべ、誰もそれを奇妙に感じないマラソン大好きっぷり。 空気のようにマラソンが満ちているのだ。 それはちょうど、岡山に桃太郎、土佐に黒潮と坂本竜馬、ってぐらいの県民との密着ぶりだが、あまりの密着ぶりと、しかもマラソンが非常に個人的競技であるという本質と、加えて見た目に「これ以上無いぐらい地味」という揺るがせない現実によって、割りとマラソンで有名な選手が出たとしても県民以外(県民も)それがその元県民であって、出るべくして出た下地の厚さが脈々とあり、そこから育まれた可能性もないでもない事を(紛う事なく個人競技であるがゆえ)全く考慮しない事が多々あるほどだ。 県民の誰も、自らのマラソン大好きぶりに気づかない。 なにしろ本人達も「わーい!マラソン大会だ!」等とは感激して、はしゃいでやってるわけでなく、大半は「タルイ。またマラソンか」と思って走っているので、自分達が自らマラソン大会を無駄に異常に増やしているなどという喜劇的悲劇の事実に思い至りもしないのだ。他所へ移っても「ああ、マラソンしないんか」と思うだけで、「ここが少ないのではなく、元が多かったのでは?」等と原因に思い至ったりしないのだった。 そこで、他所出身者はそこへ行ってみて、やっと「なんでこんなにマラソン大会が多いんだ?」と驚愕するぐらい、マラソン大会は地と人の心に食い込んで密やかなのだ。 全日本マラソン協会みたいなのがあったと思うが、そこなら広い世の中では、信じ難い事に熱狂的マラソン・フィーバー県が実は存在していて、そこは、古事記時代にまで遡ってもまだ「超田舎」と堂堂と明言されているのみならず、現在も田舎という太古より歴史ある名高き田舎で、現在に至っても近隣の人々以外「ごめん、それって日本のどこらへんにあるんだっけ?」等とのたまう程の過疎的な、自他とも認める地味県である事を知ってるかもしれない。
その県は永遠に派手にはならないだろう。何故なら県民が地味であり、しかも地味を好み、いっそ「どこよりも地味である、これほど地味で目立たない県はない」という事を密かに自負しているからだ。 過疎は言うに及ばずだが、しかし太古より脈々と過疎で、過疎でなかった時代がないので、過疎っている事すら取り上げられないぐらいの言語道断な過疎ぶりだ。あんなに狭い(広くない)県なのに、県民一人当たりに割りふった面積、広さが、なんとあの広大な北海道に次ぐのだ。これがすごくなくて何がすごかろう? 四国山脈がその土地面積に比較して考えられないほど異常に高く、その面積に対する高度の比率はかのチョモランマにも匹敵するほど・・・、というぐらいの秘められた凄さなのだ。
全国の県民性を調査し比較したような本がいくらもあるが、他の目だない県民に対しては「実はこんなところが」と見出されていたというに、それだのに、そんな本に至ってまで、なんと!この県民は、 「…書く事がない。一つの特徴すら見つからない。その地味さは「特徴は地味なこと」とすら書けないほどに他の追随を許さぬ徹底した地味っぷりで、「県民性不明」なところが特徴的な県民性」 等と、考察すら放棄されているぐらいだ。 しかし私は思う。あそこはマラソン帝国なのだ。
ともかく、 それっぐらいの田舎なので、「去ぬ(いぬ)」とか「食う(くう)」とか昔の言葉が方言として残ってたりするんだ。 例えば、「食う(くう)」なんて、本式「食べる」と言うべきなのをぶっきらぼうに言ってるのでも乱暴なのでも、利便性と親密さの為に短縮した形になりがちな方言の法則によるのでもなんでもなく、単に古語を残したままという方言なのだ。気持ちは丁寧語「食べる」なのだ。
そんなわけだから、「絶対にうちの方言でない」とは言い切れない。 「自らが口にしておきながら、何故うちの方言を疑ったのか」聞き損ね、言い損ねたが。
本を読んで> 「絵はだれでも描ける」という本を読んでいて、そのとおりだと思う。絵を描きたくなる。しかしやはり人に見せるような絵は描けない。この本はそういう本なのだ。「何故自分の絵を好きなどというのかわからない」と言い、「絵は下手だから」等とのたまって描こうとせず、描いても見せてくれないケチな人に読ませてやりたい。 ああ、誰か心があたりでもあるのかね?(笑)
技術としての絵とは別に、対極に、表現としての絵があるという本なのだ。十代初期で高度な描画技術を体得しきったピカソが、数十年を費やし焦がれ自らに欲し追い求めた種類の、言うなれば、認知でなく想像が、知性でなく心性が描きだす絵画の事だ。その人以外誰にも描けない、教えられ知り構築するのではない絵画だ。 バレエや社交ダンスではなく、言うなればジプシーの踊りだ。踊りかたを知れば、踊る事は出来ない踊り方で、それがゆえに「訓練しなければ踊れないなんてジプシーじゃない」と言わしめた、それがジプシーの踊りであり。 訓練し、勉強しなければ描けないのは、そのタイプの絵ではないのだ。そして絵画技法を勉強し訓練すればするほどに、気を抜けば自身の知識としての美意識によって容易く、二度と描けなくなるような種類の絵なのだ。 心が描く絵だ。芸術家なら魂が描くと言うだろう。モームの「月と六ペンス」で最後に人知れず描かれ、火を放たれた絵は、きっとそのような絵だったのだろうと思う。 山下清などもこれで、人が家族と過ごす暖かな居間に飾りたくなるような絵はこういう絵なんだ。 私はこれが描けないんだ。どう頑張っても、うまく描けない。うまくってのは心が満足するように、心のままにだ。当たり前だ。うまく描こうなどと必死に頑張ったら頑張れば頑張るほど絶対に描けない絵だからだ。 昔の宗教画なんかでも、イイナと思うのがある。 一興は、水の中に立つキリストを描こうとして、水を盛り上げてしまったなんて厭味でなく傑作だ。彼の今は名も知れぬ画家は、どんな風に描けば水の中に立っているように見えるのか知らなかったのだ。だがそこにはそれだけに、かえって心がある。「そこに立たせたい。たっているのだ。それを、自分は描く」という必死の思いと、それだけに、その対象であるキリストに対する彼の思いの強さが見えるようじゃないか。 生まれて初めてのような、たどたどしい告白が、滑らかな口説き文句やエスコートや華麗な誘いより、時々人の心を酷く打つようにだ(苦笑)
技術が優れるというのは、悪い事ばかりとは言わないが、良い事ばかりではない事は確かだ。それは優れるほどに容易く心を隠すんだろう。 美大や専門学校に行って、企業デザイナーになれるものは多くても、芸術家、画家として食っていけるようになれるものは一握り以下だ。それはそこが広く認められるセンスも含めて「技術」を教える場であって、そして汎たる技術はオリジナルの感性を食い物にしながら成長する。 一般に広く認められるという事は、一般には認められがたい部分を削り落としていく事でもある。形式を踏襲することだ。だがオリジナルとは唯一である事だ。そしてその孤独であるのにも関わらず、多くのものに対して光輝くさまが芸術的っていうんだ。
技術を得てしまったら、技術を踏み台に、技術を越えなければならない。 例えば俳優が、それが演技である事を知っていて人を感動させるように、小説やドラマが、全てが作り事である事を知り尽くしている人間に尚、それが作り事である事がどうでもよい、関係ないと思わせるようにだ。 それは大変な事だよ。
一般には昔よくヘタウマとも言ったきがするが、本式には、ナイーブ・アートというのだそうだ。その呼称は初めて知った。 ヘタウマってのは、下手って事ではないのだ。上手くは見えない、上手くは無いのに、どうも下手って感じでないって事だ。 逆にウマヘタってのが個人的にはある。上手いんだけど、「で?だからどうした」って感じの奴だ。
遠藤淑子さんに、あまり、絵を上手くならないで欲しいとこっそり思ってた。「ある意味、既に激上手い」とも。思うに、ナイーブ・アートを評価する視点で上手いと思ったのかもしれない。
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