非日記
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せっかくのテレビ放映だというのに、「千と千尋」見ませんで、「タイタス」見てました。やっぱ見なかったよ。 いや、ジブリの事だし、きっとまたいずれは何度も放映されるだろうと高を括ってたのだ。今度だけは見たくなかったのよ。
それで「タイタス」 アンソニー・ホプキンスが出てるのでウキウキ見た(笑) 「彼を見る為だけ」と言って過言ではない。そのとおりだ。 以前に「もしかしてオネエサン、ホプキンスが好きなの?」と言われて「好きだよ?」と言ったらば、「知らんかった!」と驚かれる。「どこが好きなの?」と問われて正直に「顔…かな?」と言ったらば、「そうなの?」と驚かれる。 ええー?何度も言ったつもりなんだけど?気の所為だったかしら。夢の中で言ってたんか。 ちなみに、アンソニー・ホプキンスでカッコイイ版なら、私的オススメは「アミスタッド」の老政治家なりよ。超カッコイイよ!惚れるなよ!? お岩さんみたいに「キャー!出たー!」って感じ(違)出張ってくるまでは、「んもう!おじさまのイ・ケ・ズ☆」って気分を堪能できるし。出張ってきたら今度は「うわあ!ロ・ウ・カ・イ☆」と惚れ惚れする事請け合い(笑)
なにやら今度アクションものをやるとチラっと聞いたのだが、どんなんだろう?私、彼の体の重さを引き摺るような抑えた演技が好きなんだが。 常日頃、人間は他人の目を意識して感情を演じてるんだ。あるいは「自分はこのような人間だから、当然このように感じる(はずだ)」という自分への演技。 その、感情を演じている感じの演技、演じる感情と漏れ出す感情のアンバランスさのリアリティが好きなんだ。
感想、 ずばり、舞台演劇見てる気分。シェークスピアの他の映画化作品も以前に幾つか見た事があるが、これが一番、「…ぽかった」。 てゆうか、まんまじゃん! 映画を見てるというより、「演出を見てる」気分。出だし五分で、「うわあ、シェークスピアだー」って感じがし、その後もムラムラと高まる一方。 「シェークスピアそのままの舞台演劇なんだが、演出をリアルにし、演出の自由度を上げる為に映画という手段を使った」って雰囲気だ。
立ち位置から何から、舞台じゃないんだが、「舞台」が、劇場が見えるのよ。 「あ、ここで一幕が終って休憩が入り、その隙にセットが変わって場面が切り替わったわけね」とか、「あ、この役者は今舞台のこっちからこっちへ歩き回りながら、観客に話掛けて、事情や舞台裏を説明してるところね」とか、も、そんな感じ。 「これが舞台なら、今証明を殆ど落としてスポットライトが当たってるところだな?」に「あ、今スポットライトがうつって、役者が振り返って観客の方を向いたところか」と来たもんだ。 こりゃ劇だよ。まさしく。 こんな映画初めて!…てゆうか、映画じゃないよ?(笑)映像だけ映画だよ? 変なの!
そんな具合に驚愕したのはおいておいて、アンソニー・ホプキンスはカッコ良かった☆ 悲惨な復讐合戦でシリアス至極なんだが、ちみちみとブラックユーモアがちりばめてあるのがまた痛痒くて良い。大仰な筋だけでも芝居がかった話なのに、細かいところでリアリティがあるね。タイタスの性格のもとからの悪さというか極端さとか、それぞれの自己中心性とか。
タイタスが復讐を決意するあたりから俄然盛り上ります。演技は盛り上ってる感じはしないのだが、見てるこっちは俄然盛り上ります。「来たよ、来た来た」って。
カイロンとディミトリアスの前で語るところなんか、とても良い。 「皇后は私が気が狂ったと思っている。楽しみだ」 あたりなんかもう、本領発揮って感じだ。この、この後に及んでまだ抑え続けるヒタヒタ来る感じ! 「羊たちの沈黙」の名演を思い出し。 派手な演技でない分、憎悪の根深さが忍ばれ。復讐の相手であるタマラに接吻するところもな。つまりタマラはあれでタイタスが狂っている事を一応信じたのだろうが、復讐を成功させる為にそこまでやったタイタスの憎悪の深さが、その後の割りと淡々とした所作でシミジミ伝わるよ。 タマラも無論タイタスを憎悪していて、それも当然と最初の方の表情から変化にも表れているのだが、この辺のタイタスまで来ると、流石に「タマラは憎悪にまかせてやり過ぎたのだ」って感じがメラメラ伝わるね。
まだ疑いながらも結局パイに手をのばすタマラを見ながら、そしらぬふりを演じきるタイタスの慎重な周到さと冷静さに脱帽。すごいよ、タイタス!普通の人間ならもうここで「プッ」って来かかるね。
皇帝サターナイナスの「二人をここへ呼べ!」までの静かさと、その直後の 「もう来ているッ!焼かれてパイになってる!母親がパクついた!生んで育てた肉を食ったのさ!ザマを見ろッ!」 の変化は秀逸。 見てるこっちも、タイタスの歓喜に引き摺られて気持ち良いってば(苦笑) 良し悪しを超越して、もはやアッパレ気分だよ。溜めに溜めた憎悪を解放する喜びと清々しさに満ちていてリアリティ溢れてるよ。 その後のサターナイナスに殺されるところでは、もはや為すがままで、充足しきったようなウットリしたような、遠く我が人生とその至ったところを眺めて受け入れてるような老いた目も。 タイタスは既に復讐を果たした事もあるが、サターナイナスの若い怒りは、既に自分の上を遥か遠く過ぎ去った感情への眼差しよな。羨むような、眩しいものを見るような。ここも良いね。 若い怒りってのは、若者の怒りでなく、つまり文字どおり、怒りの感情の若さだ。
サターナイナスの怒りは確かに本物で、彼自身から生じ彼を突き動かしているし、事によったら彼を操っているとも言えるが、だがそれはまだ彼自身そのものではない。タイタスやタマラがその感情に自ら手を差し出し、その感情と共謀し協力し操り操られる事を選び、分かち難く結びつき、自らが権化となる事を選んだようには。日本風に言うなれば、彼と彼女は鬼になったのよな。 その点に関して言えば、タイタスはタマラより一歩リードって感じだ。 「哀しみが私の理性を失わせたのです」と、非常に理性的に、むしろ悲しげに言うところとか。
だからあの眼差しなんだと思い。とても良いわ。 毎度納得させれる演技。ステキ! 「羊たちの沈黙」見て、「ハンニバル」見て、「レッド・ドラゴン」見なきゃ!
父親の手によって縊られるラヴィニアの性的なまでにうっとりした感じが、復讐が既にほぼ完遂された事を物語っているのだが、復讐の完成はそれが達成された事をタマラに知らせる事であるところが、この一瞬が極度に盛り上る由縁よ。 そのとおり。復讐はそれが成された事を知らせるまでは終らないのだ。完璧な龍に最後に目を描き入れるようなものよ。そして完成し命を吹込まれた龍は途端掛け軸から飛び出して天へ昇り、後には抜け殻が残るという仕上げ。
盛り上るよ本当に。そこだけ三回見て三回とも盛り上れたよ、私。 「二人が殺したのだ」の静かな悲嘆にくれた直後に、道化めかしてタマラを嘲笑うタイタスと、「このナイフが証人だ!」でタマラに突き刺すシリアスなタイタスと、短い時間で表情がくるくる変わるのが秀逸なんだって。 感情の変遷が非常に理解しやすくて、引き込まれるよ。
そしてタマラもそれが悪質な冗談などではない事が、言われた瞬間にわかるってのが、まさに互いに同じ憎悪を抱き、それを互いに知り尽くしている父と母、二人はある意味ツーカーって感じで、そこもリアルよね。
>> ところで、パトリック・スチュワートの「クリスマス・キャロル」が見当たらんそうな。んな馬鹿な!超良いよ!?彼が好きなら絶対見なきゃ!って。
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