つらつらきまま


2007年06月14日(木)
神様は見ている?


家の更新と武蔵野市民文化会館に鶴瓶さんの落語を見に行くため、午後から半休。
 良い機会でもあるので思い切って引越しも考えたが、会社からの距離や立地と家賃の関係など諸々を考えると、やっぱりここがベストのような気がして、結局更新。
 4年も住むと街にも愛着が湧く。

落語会の最寄り駅の三鷹駅に着くと雨が本降り。
 最初は徒歩で行こうと思っていたけど、詳しい地図を持ってなかったので、パーンとタクシーを使い、いざ会場へ。
 ロビーにいた上品な老婦人2人が会話をしていたが、1人は「しゃべれどもしゃべれども」を見に行ったらとても面白かったと言っていて、快楽亭ブラック師もブログで面白いと書いていたのを思い出し、土曜日にでも行ってみようかしらと思う。
 うちの父は嘉穂劇場の鶴瓶さんの「らくだ」に備え、今のうちから少しずつ落語に触れてみようと思い、公開初日にこれを見に行ったそうで、「国分太一は上手い!」と絶賛するメールが来た。

今日は開口一番の後、
 ・笑福亭鶴瓶 「青木先生」
 (休憩)
 ・林家正蔵 「悋気の独楽」
 ・桂歌丸 「ねずみ」

 という演目だった。
 お目当ての鶴瓶さんが初っ端に出て来たので、休憩中ちょっと葛藤したものの、せっかくの縁だと思い、最後までいることに。
 
 今日、個人的にちょっと嬉しかったことがあった。
 それは、鶴瓶さんの出囃子をやっと覚えたことだ。
 「44口径」や「ストーンコールドスティーブオースティンのテーマ」のように鼻歌も出来る、という域にはまだ達していないけれども、流れて来た時(あ、これは多分「新ラッパ」)とピンと来るようにはなった。
 
 丁度近くに、有名な鶴瓶ファンの方がいらっしゃったのだが、休憩中にその方が近くの人とお喋りしている内容が自然と耳に入ってきて、ついつい聞いてしまったが、その一つひとつが(そうですよね!私もそう思いました!)と、納得することばかりで、(あぁ…この人とお近づきになりたい…。私も鶴瓶談義の輪に入りたい…)と珍しく親和欲求が生まれたほどだった。
 何というか、(本当にこの方は鶴瓶さんが大好きなんだなぁ)ということが言葉の端々からビンビンに伝わって来て、(“好き”っていいなぁ)と単純なことを今更ながらしみじみと思った。

落語会の帰り道。
 ケータイの電源をオンにしたらクサノさんから留守電とメールが入っていて、珍しいこともあるもんだなぁと思いながらとりあえずメールを読んだら
 
「テングが今月末で辞めます。何はさておきあなたに知らせたいと思い電話したら留守電だったのでメールしました。詳しくは明日」

 と、いつものクサノさんらしい簡潔で分かりやすいながらもどこか興奮した文面だった。

“テング”というのは、私が就職して最初の部署にいた頃の上司のあだ名だ。
 就職して半年ほどは問題ない関係だったが、この人のお気に入りの人がこの部署に異動して来て、関係が急速に悪化した。
 “手のひらを返す”とはこういうことをいうんだなぁ、と実感したぐらいに態度が一変し、“今までは言わなかったが…”の前置きの後、仕事の内容や電話の応対、私の性格、存在価値に至るまでありとあらゆることを叱責・非難し出し、非常に私は混乱した。
 何かすると「余計なことはしないで欲しい」といわれ、手を引くと「自分の頭でやろうとする気はないの?」と睨まれ、どうすることも出来ず、会社に行くことを考えるだけで涙が出るようになった。

 (自殺はしない。でも、何かの事故に巻き込まれて命を落とすようなことがあれば、それはそれでいい)
 
 とまで思うようになり、それをおかしいとは思わなかったのだから当時の私は相当追い詰められていたと思う。

 “こんな生活が続くぐらいなら、もう今いのちを落とすようなことになっても別に構わない”ということを一回でも思ったことがあるという事実は、結構自分の中に重くのしかかった。
 実行に移さなかったとはいえ、またこんなことを思ったりするのではないだろうか、と自分の中に潜んでいるある種の破滅衝動に脅えていた。
 
 去年、青山寄席で鶴瓶さんの「たちぎれ線香」を初めて聞いた帰り道、(あぁ、あの時、死なないで本当に良かった)と心の底から感じた時、自分の破滅衝動を封印出来たと感じた。
 (生きたい。生き続けたい)
 という痛切な思いが次々に出て来た。

半年後。
(生きてて良かった。これからも生きたい)とそのように思わせてくれた人の落語を聞きに行った帰り道、生きることに執着を持てなくなった原因を作った人が結局私の前から再び去るというニュースを目にするとは思わなかった。



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