2006年12月07日(木)
子供は何でも知っている
育休中の先輩が3ヶ月の息子さん(コウちゃん)を連れて会社に遊びに来たので女性一同赤ちゃんの取り合い。
3ヶ月微笑の真っ最中ということを差し引いても本当に良く出来たお子で、誰に抱かれてもにこにことご機嫌で、時には「あー、うー、うぶー」なんてお喋り遊ばすほど。
ところがどっこい。
<こんなにも“高慢ちき”という言葉が似合う人はいない>
と本人を除く女性社員の間で見解が一致しているA女史が(どうやったらそんな声が出んねーん!)とツッコミたくなるほど猫なで声で
「や〜ん、赤ちゃん、可愛い〜。抱っこさせて〜。私、赤ちゃん好きなの〜」
といいながら抱き上げた途端、コウちゃん大号泣。
おろおろと揺らしたり声を掛けたりしてみるA女史だが、されればされるほどコウちゃんは泣き喚く。
「そろそろお腹が空いて機嫌が悪くなる頃なんです。お騒がせしてすいません」と、先輩がA女史に説明する横で私は
(赤ちゃんって邪悪なものに敏感なんだな〜)
と1人感心していた。
コウちゃん、グッジョブ!
幸いにも泣かれることが無かった私は色々コウちゃんに話し掛けたりしていたが、終業間近になってフト気になりクサノさんに
「私、コウちゃんをあやしてた時、方言になってませんでした?」
と質問したら
「なってた、なってた!せりちゃん普段方言出ないから、(あぁ、ご家族やお友達の前ではこんな風に喋ってるんだろうなぁ)と微笑ましく思いながら見てたのよ」
とのこと。
無意識の時はやっぱり方言が出てくるもの。
ちなみにその時私が言っていたのは
「ん〜、コウちゃん、どうしたと〜。何(なん)がそげん面白かとね〜。そうね〜、楽しかと〜。人のいっぱいおるもんね〜。楽しかね〜」
だった、と思う。
東京にいる時は標準語、地元や地元の友達と会う時は地元の言葉、と使い分けているが、高校を出て関東の会社に就職した頃の年子の従弟は、里帰りをしても絶対に標準語で通していた。
当時は(なん、こいはカッコつけよっとやろか)なんて思ったりしていたが、今は分かる。
18歳の子が大都会で1人一生懸命働いてた。
都会に慣れるためにいつも気を張っていた。
方言を出したらもう二度と関東に戻りたくなくなると思ってたのかもしれない。
標準語は彼が都会で生きるための意地みたいなものだったのだろう。
結局3年働いた後Uターン就職で地元に戻って来たが、我が子同然に可愛がっていた甥が戻って来るのを楽しみにしていた私の母は彼が戻る4ヶ月前に亡くなった。
葬儀に出れず年末に焼香を上げに来た従弟は「どうしても出たかったとやけどね…」と寂しそうに呟いた。
もう語尾やアクセントは長崎弁だった。
郷土の星・さだまさしの「案山子」を聞くといつもあの頃の従弟が浮かぶ。
父はあの頃の従弟と今の私を思い浮かべて泣くらしい。
それを聞いて私も泣く。
>元気でいるか
>街には慣れたか
>友達できたか
>寂しかないか
>お金はあるか
>今度 いつ帰る