つらつらきまま


2005年08月05日(金)
青い空は

TBSの「ヒロシマ」特番。
 見ている内にどんどん引き込まれる。
 広島と長崎に関係する人達以外はどうなんだろう。

恥ずかしいことに6月23日が何の日なのかを知ったのはつい最近だ。
 1945年の3月10日に東京で何万人もの人が亡くなったというのに、そのことについて深く考えたことが無かった。

 自分のことと結びつけて考えればそんなことはない。
 自分のことと結び付けなければ、他の色んなことと同じようにいつかは流れ去って忘れてしまう。
 忘れることはとても恐い。
 他人事はとても恐ろしい。

原爆を深く教わったのは小学校だった。
 当時はまだ被爆者の教員が現役だった。
 そして私の学校は被爆校だった。

 8月9日は登校日。
 教室から体育館に向かう廊下には、被爆者や被爆者の遺体写真、黒こげの馬、何も無い街の写真がずっと貼ってあった。
 そこにそういう写真が貼ってあることは事前には言われない。
 
 生まれて初めて原爆が落ちた当時の写真を見た私が、その時何を思ったのはか覚えていない。
 多分唖然としてたんじゃないだろうか。
 自分と同じ人間だとは思えず、物のようだった。
 実際、その写真に写っている遺体は熱線で一瞬にして焼け焦げて炭化しているので、組成的には物体に近いものだったかもしれない。
 
 その写真は40年前の今日のこの場所だ、と言われてもあまりピンと来なかった。
 しかし学年を経るにつれて、徐々に自分に置き換えて考えることが出来るようになった。
 今、原爆が落ちて自分だけ生き残ったらどうしようとか、今、戦争が起きてお父さんが戦場に連れて行かれたらどうしようとか、どこか突拍子も無い仮定だが、8月9日が近づくにつれてそういうことを想像しては時々とても不安になった。

 自分は原爆で死にたくないし、自分の親も原爆で死んで欲しくない。
 友達も大好きな先生も原爆で死んで欲しくない。
 非常にシンプルな願い事を8月はよく祈っていた。

 そういう気持ちで9日の登校日はいつも「青い空は」という歌を大声で唄っていた。

 googleやYahoo!で検索すると結構MIDIも歌詞もヒットした。
 その中の1つをクリックしてみた。
 中学校以降では「原爆を許すまじ」を集会では唄っていたから、メロディを聴いたのは15年ぶりだ。
 
 15年ぶりに音楽を聴きながら頭の中で歌詞を思い起こしていたら、いつの間にかボロボロ泣けて来て、ちょっと困った。
 初めて教わった時、
 >あの夜 星はだまって 連れ去っていった
 という歌詞について、どういうこと?と親に問うと
 「長崎でね、原爆が落ちたその日の夜までにいっぱいの人が亡くなったってことばいいよっとよ」
 と教えられ、子供心にガーン!と来たのを思い出す。

 あの頃、「伝えたい」と願われた対象だった私は、「伝えたい」と願う側となった。
 これだけは絶対に伝えなきゃいけない。
 途絶えさせてはいけない。

ちなみに「原爆を許すまじ」はあまり唄ったことが無い。
 MIDIを聴いて頂けたら分かるが、「青い空は」は原爆のことを歌ってる割にあまりおどろおどろしくない。
 だから小学校で教えたのかもしれない。
 中学校に入って初めて「原爆を許すまじ」を聴いたとき、あまりのおどろおどろしさに面食らった。
 正直言うとあまり好きにはなれなかった。

 今回、どんな歌詞なのかを改めて検索したら、1番から4番まで全面的に凄み溢れる歌詞だった。
 どこか哀愁が漂う曲調とは対照的に、歌詞は拳を握って堪える怒りにも似た思いを感じる。
 でも、恨みは無い。
 許さないけれど恨まない。
 忘れはしないし忘れられないけど、立ち止まったままではない。
 市井の人々が持つ底力を感じ、また悲しくなる。
 広島も長崎も、原爆が落ちた年の秋には電車が走ったり市が立ったりし、混乱の中をそれでも生き抜く人達が確かにいた。
 力を持たない筈の人々が圧倒的に強かった。

今年、広島の原爆碑の文字の一部が傷つけられた。
 傷つけた犯人は自首した。
 「過ち」の文字が許せなかったらしい。
 同じ日本人が作っておきながら「過ち」とは何だ、と腹が立ったことが動機らしい。
 
 あの“過ち”は勝ち負けに対する“過ち”じゃないと私は思っている。
 “戦争”を起こしてしまったという、全人類が決して忘れてはいけない“過ち”。
 もうあれ以降“過ち”は起きていない筈だが、“過ち”は続いている。
 こんなに人間は忘れてしまう存在なんだろうか。
 




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