以前から少し考えていて 相変わらず結論の出ない事がひとつ。 そもそも問いですらないようなものなので 結論というのは不適切かもしれない。
障害者、あるいは欠点という言葉から始まって。
例えば片手がなくて生まれる人もいる。 足が悪く車椅子でないと動く事が出来ない人。
そういう人を見たとき障害者と考える。 対して、五体満足な人を健常者と考える。 (必ずそうということではないが)
少し視点を変えてみて 欠点という言葉について考えてみる。 欠点がない人などいない、と言うのは 多くの人の共通の認識といって間違いがないと思う。
欠点と言うのは、読んで字のごとく 欠けた点の事である。 悪い点、というように解釈される事が多い言葉だが (あるいはそういう風に定義されているかもしれないが) 欠けている点を示す、というように解釈しても 間違ではないのではないか。
そういう風に考えると、人は誰しも欠けた点を持っており 例えば右手のない人は、右手が欠けた点になるのではないか。 もちろん、五体満足な人に比べ身体的な部分が欠けている場合 生活に支障が出る。 それは多くの人間が両手足を自由に扱えるため、 そのように文明が進化したからである。
ところで、身体障害者をその人のせいにする人はいないと思う。 生まれながらの事であり、本人の意思ではどうにもならない。 これも多くの人の共通の認識だと考えて間違いないと思う。
次に、精神的な問題について。 先日『境界例(境界性人格障害)』と言う言葉を知った。 具体的な説明は専門のサイトを見ていただいた方がいいと思うが 例えば ・ 自分の生き方がわからない。 ・ 自分のすべてを受け入れてもらいたいと望んでいる。 ・ 愛し方が不十分であるという理由で相手を責めたてる。 ・ 他人への評価が極端から極端へと揺れ動く。 ・ 自殺未遂を繰り返す。 (引用:http://homepage1.nifty.com/eggs/) というようなこともあるらしい。
原因とメカニズムと言う項目を見てみると どうも赤ん坊の頃から始まるということらしい。 情緒や、人格を形成するのは環境だとおもうのだが…… さて、赤ん坊に責任を負わせる人がいるだろうか? 考えるまでもなく、赤ん坊に責任能力はない。 つまり、境界例などについは当人の能力だけで 回避できるものではないということになる。
それでは、当人が回避しえる場合というのは どういうものなのだろう? 先ほど言ったように、情緒や人格というのは 環境によって形成されていくものだと思っている。 また、人は判断をするときに経験から判断する事がおい。 経験をする、というのもまた、環境である。 これらが事実であるならば 当人の性格から始まり、判断基準など それら全ては環境によって決まるものである。 そして環境とは、生まれた『場所』によって定まるのだから 生まれる場所を自分で定められない以上 それらは自分では回避しえないということになる。
例えば勉強が出来ない、運動が出来ない。 それは何によって決まるのだろうか? もちろん先天的なものもあるだろうが 努力によってある程度は底上げする事が可能である。 では、努力が出来る出来ないは何によって決まるのだろうか? 環境か、あるいはその個体特有の性質か。 環境であったら生まれる場所を自分で指定できない以上 その人に責任はない。 個体特有の性質であれば、やはり自分でどうにかなるものではない。 身体障害者と同じように。 自分で選んだわけじゃないのだから。
そう考えたときに、 当人が回避しえる……問題を選んだり、避けたり、解決したりする 『自分の責任』という言葉に意味は成立するのだろうか? たとえ成人してからの判断であっても 判断するための基準が子供の頃の環境などであるならば それをその人の責任とすることは出来ないのではなかろうか?
これを当人の責任だと非難できるのであれば 境界例の人や身体障害者の人にでさえ その人が悪いと非難できてしまうのではないか。
……という言うようなトンデモ話が頭に思い浮かんでしまいました。 書いてて当初書こうとしてたこととは 違う方向に進んでしまう悲しさや。
問題と結論をちゃんと考えて書かないとこうなってしまいます。
書いててだんだん分からなくなってきたし 全然まとまってないので私自身後から読んでも何を書いたのか さっぱり分からないかもしれません(笑
電車に乗る時間も増えたし いずれ考えるときがあるかもしれません。 そのときはもうちょっと分かりやすく書けたらいいのにな。
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