リュカの日記

2004年12月25日(土)

親が作っていたチョコレートケーキを食べるのをすっかりと忘れていた。
午前0時をまわってからケーキを食べた。
夕飯はチキンだった。
話は変わって、日本は「恥の文化」で、西洋は「罪の文化」なのだという事を、何かの授業で聞いた事があるのを思い出した。
よく「世間様に顔向けできるように」といった言葉を耳にするのも、その恥の文化からくるものだという。
西洋は、映画などでよく「ああ、私の罪をお許しください」とお祈りをする場面を見かける事が多いかな。
日本的な考え方は「じゃあ、その恥さえバレなければ何をやっても大丈夫だ」と、そんな感じなんだろうな。
自分にも当てはまる。
以前の俺が少年を襲わない理由として「性癖がバレるくらいなら死んだ方がマシだ」と。
抑止力になっていたものが「恥」なわけだ。
今の俺にとっての理由は、実際に襲われた少年が苦しんでいるのを直に話しを聞いたから、というのが大きい。もちろん恥も含まれるだろう。
あとは、「少年さえそんな目に合わないでくれたら、自分の内面を全て解決できるのだ」といった漠然とした意識。
罪というより、それによって作り上げられた自分の中での決まりのため、という感じかもしれない。第一、欝のない今、精神的にそこまで切迫した状況ですらないわけだ。

とりあえず、いかにもRavenって感じのHPにしたから『ここ』にリンクしとく。
雰囲気だけで、内容自体はまだ薄い。

岡田あーみんという漫画家の「お父さんは心配性」という漫画を昨日から読んでいる。全6巻詰め合わせをMXで落とした。
その前に読んでいた「ジョジョの奇妙な冒険」第5部は昨日読み終わった。面白い漫画だった。
その後すぐ、この「お父さんは心配性」を読み始めた。
昔母親が買い集めていた「ちびまる子ちゃん」に、さくらももこと岡田あーみんの合併漫画が載っていて、それが面白くて興味を持った。
実際落として読んでみると、そこまで楽しい漫画でもない。
この漫画に出てくる変な「お父さん」の行動に対し、ちびまる子のナレーションがツッコミを入れるから面白さが広がっていただけで、単体で読むと大した事ない。
笑えそうなところで、無理に声を出して大げさに笑ってみた。
無理やりにでも、「楽しんでいるんだ」という気分にさせる。

元々、欝を失くす事自体は簡単な事だったのかもしれない。
自分の中で納得できる条件を見つけ、少年に対する特別だという意識を切り離せばいいだけだ。
本来、どんな物事に対してでも不謹慎な目で見てきていたような人間だ。
性癖が不謹慎なものに変わっていく事にも抵抗がなかった。
不謹慎すぎて、身近な他人事に対してもあまりに何も感じな過ぎたり。
その反動というか、物事に対して価値を見つける事が困難で、何をしていても虚しく感じる事が多くて、とそんな感じだったかもしれない。
中身が薄い中途半端な人生を送ってきたように思う。
自分の人生について目標も信念も持ったことがなくて、将来やら何やらを真剣に考えて見る事さえなかった。
中途半端過ぎる人間だと思う。
そんな中で強い意識を持たせてくれる存在になったのが少年で、少年を絡めて考える限りは、どんな事にも価値や重さを感じる事ができて、とか。
色々な事に意味や価値を持たせられる。
あの子が認めているものだから善いものなんだ、その子が嫌がるものだから憎むべきものなんだ、とか。
欝を失くすためには、そういった少年に対する意識を切り離してしまわなくてはならない。ほぼ「捨てる」と言っていいだろう。
よく耳にする言葉で「失くしたものは戻ってくるけど、捨てたものは戻ってこない」と、それが意識のどこかに根付いていたので、俺は少年について強く意識する事を辞めなかったのだと思う。
それを切り離してしまえば、中途半端で不謹慎な奴に成り下がってしまうのが自分でも分かっていて、どれだけ欝で苦しくなってもそれだけは捨てまい、としていたのかもしれない。
少年に対して何か納得できる事きっかけさえあれば考えるのを辞められる、とそれがゴールみたいに感じていたり。
それでも、少年に対して絶対感を感じていた俺は、ありえないような話に対して納得なんてしようがないし、納得しようともしなかった。というか、納得できる条件さえなかった。
そこで意識(価値観?)を切り離してしまえば、せっかくそこまで意識を強めてくれる存在が自分の中に現れたのに、また全部消えてしまって全てに価値が見えなくなる。
「少年が価値を置いてるものだから、自分にとっても価値があるんだ」という風に、何かに対して強く「良いモノ」を感じる事もできなくなる。虚無だ。人生そのものに価値がなくなる。
結果から言うと、立て続けに受けたショックで、納得できもしないのにその意識(価値観)を切り離してしまった。心にしこりは残り続ける。
一度捨てたものは元には戻らなくて、後になって必死で前の価値観にしがみついて同じように考えよう、感じようとしてみせたところで、結局俺自身の本質は不謹慎で中途半端で意味のないものに戻ってしまった後だった、と。
思い入れがあるから苦しくて、思い入れがあるから欲望が過大で、思い入れがあるから保護したくて、思い入れがあるから大事にできて、とか。
少年さえ無事で居てくれれば、その思い入れは財産だ。
欲望への思い入れを優先すれば、その他の全ての思い入れを無価値にしてしまうのが分かっていたので、そんな目にさえ合わずに無事でいてくれたら、少年を汚さず、多分その思い入れ(欝)とも上手く付き合っていく事も出来たと思う。「欝と上手くつきあう」みたいな格言も聞いた事があった。
タイプの少年への異常に強い思い入れを捨ててしまった、もう戻らない・・・
少し自己分析みたいな感じで考えてみた。

というか、何でタイプの少年に対して「大事にできる」なんておこがましい考えを持つようになったのだろう。
そんな子は、ショタコン野郎なんかに大事に思われる事自体気色悪く感じるのが前提だったはずなのに、今の自分は「大事にできるだろうか」とか「大事にできたら」とかいう風に考えてしまう事が日常だ。
絶対に手が届かない尊い存在である少年なのに、一度向こうから好きになってくれたりしたのがカルチャーショックみたいな感じで、感覚ズレてきたかもしれない。
いくら大事に大事に思おうと、かえって迷惑がられるくらい手の届かない存在なんだ、じゃないと尊さを感じるのも薄れてきたりするのだろうか。
なんか、自分は人の好意を仇にしてしまう事が多いな。

午後9時半頃に目が覚めた。
なんとかクリスマス中に起きる事ができた。
今日は25日で、22歳になってからちょうど1ヶ月目だ。


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