tdd diary

2006年02月16日(木) the whispering of the Gods

休日。昼過ぎに上野、一角座へ。東京国立博物館の西門を入ろうとすると国立博物館に要人でも来るのか、途中で警視庁という腕章を付けた私服の大人に2回も声をかけられた。一角座のスタッフの人に案内をしてもらったところで、次の回まで1時間くらい時間があることに気づいた。そのことをスタッフの人に言うと、「じゃあ、あそことか。」と西門の目の前にある大きな建物を指差して「コーヒーくらい飲めますよ。」と。お礼を言って外に出てその建物に入ろうとしたら、そこはコーヒー飲めるどころか前から1度訪れたいと思っていた国際子ども図書館だった。今開催中の「もじゃもじゃペーターとドイツの子どもの本」という特別展示も私の好きなセンダックやケストナーも少し絡んでいて素晴らしかったけど、ここの施設全体が建物の感じ、児童図書の素晴らしさに触れられる場所で感動。「子どものへや」と「世界を知るへや」というところに、前から気になってた色んな本が山のように。1時間じゃとてもゆっくり見れず、また近々来よう、というかこれから何度か来ることになりそう。

平日10日間の限定の招待券で一角座へ。中に入るとエスプレッソとチョコレートをくれた。素敵だ。荒戸源次郎さんが新聞のインタビューで映画小屋と言っていましたけど、全く無駄なく必要なものだけしっかりと整った素敵な映画館でした。当たり前だけど長々と別の映画の予告が上映されることもない。

年に何本か映画を観ますが、そう滅多に観られない主演の役者と作品の熱烈な相思相愛。私は信じている神様が特にいないので、自分が今後どんな存在に救われるにしても、救ってくれるのは目に見えない神様ではないと思っていますが、神とは何かを考えずには観れない映画。主演の新井浩文が演じる朧が罪深いとされるタブーを犯すたびに、決まってゲルマニウムラジオをポケットから取り出し、神の囁きに耳を傾けるシーンが印象的。神に仕えるどの登場人物よりも、朧が1番神の存在を感じようとしているように見える。罪を罪と思わない人々やその残酷さや汚いとされるものと、ハッとするような美しいシーンが対照的に感じられるように、宗教への冒涜や罪を犯すことと、救いや赦しを純粋に求めることが表裏一体になっている。普通の役者ならシーンによってどちらかに傾いてしまうところを、新井浩文の佇まいが独特のバランスを与えているように見えた。これはタダで観ちゃいけないなあと思い、帰りにパンフレットを1000円で買う。このパンフレットがまたとても素晴らしい。監督は今作が初監督の大森立嗣。本編にも登場する大森南朋のお兄さん。初めて知ったけど舞踏家の麿赤兒(同じく本編にもちょこっと登場)は2人のお父さんだそう。新井浩文について書かれた大楠道代さんの原稿がとても良かった。あと、荒戸さんから依頼されて「新井浩文君への手紙」という原稿を豊田利晃監督が書いており、読んでいて泣けた。去年、「テレビ作るのと映画作るのは絶対に違う。テレビと映画の中間みたいな映画は映画じゃなくてテレビに分類する。そこは明確に分けたい。」と、最近の邦画について思うことをこの日記に書いた。「ゲルマニウムの夜」は素晴らしい映画でした。

小雨が降り霞がかった夜の上野公園は幻想的で、もう一月もすれば満開の桜を咲かせる、上野公園の中にある私のお気に入りの桜の木の前を通って駅の方へ。途中で「ハトにエサをあげないで下さい エサをあげないことがハトへの愛情です」と大きく書かれた横断幕が。愛しているならエサをくれるなとハトが言ったのだろうか。ハトは愛なんかよりエサがほしかろう。


 < past  index  future >


hatori [mail]