WELLA
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1998年08月30日(日) お伽の国

ロンドンに行った。
語学学校で仲良しになったデルフィンというフランス人の子が、一緒に遊びに行かないか、と誘ってくれたのである。デルフィンはロンドンでハロッズに行きたいという。
日本でも有名な英国の百貨店といえば、フォートナム&メイソン(Fortnum&Maison)、リバティ(Liberty)、そしてハロッズ(Harrods)であろう。私はなぜかハロッズには行ったことがなかったので異存はない。
最寄り駅に降り立って見渡す。「ハロッズはどれ?」というと、デルフィンはあれだ、と指差してみせた。で、でかい。デルフィンが「すごく大きいところだ」といっていたのだが、本当に大きい立派な建物である。周りを見ると、観光客がハロッズの写真を撮っている。デルフィンも早速使い捨てカメラにハロッズの姿を収めている。デルフィンは20歳。まだ少女といったほうがふさわしい雰囲気だが、しまり屋で浮ついたところのない子である。その子がハロッズに行きたいというのもなんとなく不思議な気もする。

ハロッズは高級店ながら、身なりで客を判断することもしない。入り口で立派な身なりをしたドアマンが肩掛けかばんやデイパックを注意する。商品にぶつけることがあるらしい。あとは写真撮影お断りぐらいで、いたって緩やかである。店内は冷やかしの客も含めて大混雑である。
デルフィンは物怖じせずにずんずんと歩いていく。「ここは女王のお気に入りのお店なのよね、きっと私たち、今日彼女に会うと思うわ」などと軽口をたたいている。
一歩足を踏み入れて驚いた。まるでお伽の国である。きらびやかなシャンデリアが輝き、内装も豪華だが、広さといい、あふれんばかりの商品といい、圧倒される。

デルフィンがはじめに向かった先は食料品売り場である。チーズ売り場には何十種類ものチーズ、ケーキ売り場にはフランス風の色とりどりの繊細なケーキ、美しく細工されたチョコレート、巨大なガムマシーン、キャンディは天井高くまで積み上げられ、デリカッセンには中華料理、インド料理を始めありとあらゆるものが並んでいる。ピザのスタンドでは目の前で次々とピザが焼かれ、寿司バーも行列ができるほどの大繁盛である。
私は後学のため、デリカッセンで寿司の詰め合わせを買う。これでおいしければもうけものである。握りだけでなくチラシもある。お持ち帰りの寿司は相当の数があるので、人気のほどが知れる。私が迷っている間にも次々と慣れた様子でイギリス人たちが寿司を買っていく。握りの詰め合わせは小さいほうで日本円にして1500円ぐらいか、高い。小渕君、頼むよ。
デルフィンはいちいち値段を確かめては、「高い」と目を丸くする。

宝飾品売り場に移動する。写真を撮ろうとして係員に注意されている人がいる。確かに写真を撮りたくなる気持ちも分かる。宝飾品は値段が出ていない。一体いくらなのだろう。
アラブのお金持ちが品定めをしている。夏のヨーロッパはアラブからの避暑客が多い。女性達はぞろぞろと黒い被り物をして集団で行動しているのである。ハロッズで買い物をするような人たちは、かなり身分が高そうである。本格的に全身を黒で覆っている人もいる。目だけを出しているが、吸い込まれそうな瞳である。体の線を出さないような服を着ているが、匂い立つような色気がある。
2階に移動する。今度は服売り場である。ウェディングドレス売り場をみる。デルフィンは普段はT-シャツにジーンズに運動靴といういでたちだが、そこはさすが20歳の女の子である。目を輝かせてドレスを見ている。「私、もうすぐ結婚するっていって試着ちゃおうかしら」などと小声でいう。
相変わらず「高い」を連発しているので、「デルフィン、ここはすべてが高いのよ」というと、「わかってるわよ。だから見てみたいの」と笑って答える。

イブニングドレス売り場に移動する。何十万もするドレスが無造作にぶら下がっている。手にとっていても別に咎められない。
「私、ここのオーナーだったら毎晩毎晩すべてのドレスを試してみるわ」「ダイアナ妃はよくここで買い物をしていたのよね」「ああ、お金持ちだったらなぁ」「でも、お金があったらきっと人生はつまらないわ」などなど、言うことが本当に二十歳の女の子なのである。可愛い。
値段を見て喜んでいた彼女だったが、あるドレスの前で動かなくなった。オフホワイトのプリンセスラインのシンプルなロングドレスである。
「これ、私のウェディングドレスにぴったりだわ。そう、ここがこうなって、こうなって…」
デルフィンは夢見ることを止めない。一通りそのフロアを見回したあと、もう一度戻ってドレスを見てはため息をつく。「私、2〜3年のうちに戻ってくるわ」といってやっとこの場を離れた。

お伽話の世界を出る。
店を出たすぐの交差点で地図を広げる。ふと見回すと周囲の人々も地図を広げている。ハロッズを出て地図を広げているのは冷やかしの観光客、しかも庶民である。お金持ちは車でささーっと乗り付けるのである。そうこうしているうちに、ほらまたアラブのお金持ちの到着である。
次はハイドパークへ向かう。食事をするためである。私はさっき買った折詰があるが、デルフィンは1ペンスでも安いサンドイッチを求めて駅の売店へと戻る。この子はお茶一杯飲もうとしない。ミネラルウォーターが入っていた空のボトルを、水筒代わりに持ち歩いて時折水道水を補給している。同年代の日本人(過去の私を含めて)とは大違いである。デルフィンはお買い得のサンドイッチを見つけてご機嫌である。ハイドパークをぶらぶら散歩しながら街の中心へ向かう。

途中でこれも高級百貨店のフォートナム&メイソンを通る。デルフィンはフォートナム&メイソンは知らないらしい。「今から日本人をたくさん見せてあげる」といって中に入る。紅茶売り場は案の定日本人だらけである。日本ではフォートナム&メイソンの紅茶は人気で、たいていのデパートやスーパー、ディスカウントショップですら買えるが、イギリスではロンドンのこのフォートナム&メイソンの店以外で売っているところを見たことがない。そういう意味では不便である。
紅茶売り場を離れるととたんに日本人の姿が減る。このデパートもさまざまな美しい食品を扱っているが、ハロッズに比べると値段も品揃えも小ぶりである。デルフィンは帰ったらホストファミリーに報告しなくちゃ、といって店の名前をメモしている。

ロンドンの街は、土曜日の午後は晴天も手伝って大混雑である。デルフィンはお金を使わないし、私もこれといって欲しいものがあるわけではないので、買い物をする楽しみもない。デルフィンは人込みが嫌いらしく、疲れもあってなんとなくふさぎがちになる。疲れてくるとお互い英語が出てこなくなるので意志の疎通も困難である。見たいところは大体回ったので帰ることにする。バスを待ちながらデルフィンをふと見ると、何か深刻そうな顔付きになっている。疲れているのだろうかと、ちょっと気にしていると、こちらを向いてデルフィンがいう。
「私が今何を考えてるか知ってる?」
もちろん分かるわけがない。分からないと答えると、
「ハロッズのあのドレスのことを考えていたの」といった。ふむ。やはり夢見る女の子である。

それにしてもハロッズにはたまげた。あそこで買い物をしたいとは思わないが、いつまでもそこに存在していて欲しい。ああ、あそこに行けば夢のような世界があるのだ、と思わせてくれる場所である。


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