JIGOKUNOMISOGURA

2001年07月27日(金) 「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」

 新潮文庫、幸田文。『父・こんなこと』。「父」だけ読了。
 この本を買ったのは、嵐山光三郎の『文人悪食』(新潮文庫)のせい。
 幸田露伴の項がとても良かった。ここで、幸田文の「父」を引用している。それを読んで泣いた。
 実は初めてここで文の文章を読んだ。怖かった。

 ふと、この引用文を読んで、幸田文は名前を文というのだとつくづく思った。
 「父」を読んでその思いは強くなった。露伴は娘に「文」という字を与えたのだ。

 露伴はこの、二番目の娘に「文」という名を与えたことを後悔しなかっただろうか。よりにもよって業な名を、と一度でも、思いはしなかったろうか。
 文は三人兄弟の中で一番、愛されなかったという。それは端から見ても明らかな程であったという。
 おそらく、文が、どんな意味でも露伴に一番、近かったのだ。
 自分に似た子は疎ましい。けれど同じくらい愛しかったろうとも思う。
 露伴は明治の男だ。女だてらで自分に一番近い性と才能を受け継いだ娘の先を、どれだけ案じたろうか。現在でも、才能のある女の先は厳しい。
 露伴は、文に、平凡な娘でいて欲しかったのだろう。
 出来るだけ愚かな、夫と、子供と、姑の間で安住できる女でいて欲しかっただろう。
 無事に嫁ぎ、子を産み、妻となり、母となって欲しかったに違いない。
 けれど、文は妻でいられなかった。そして、疎まれた子と自嘲しつつ露伴の元に戻った。最後に残った露伴の玉は文だった。露伴に孫を残したのも、死に水を取ったのも文だった。(末期の水が喉を通っていく描写は鳥肌が立つ)。
 露伴の躯を前に文は云う。「これは他人にとってはただの「もの」だ。けれど私は娘だから、この「もの」が愛しい」
 ものすごい。
 平凡で終わるはずがないと、私は露伴に突きつけたくなる。
 文がそのまま平凡な人生を文が生きたのなら、あの世で露伴もやれやれと安心したろう。けれどこの情の強い、平凡ではあり得ない、けれどこの孝行な娘は、露伴の死後ではあっても、結果として筆取り、名をなした。
 「父」を読んで、『文人悪食』に引用されていた部分まで話が来たとき、また性懲りもなく私は泣いた。「父」は闘いの記だ。私はそう思う。どんな意味でも文は父に勝負を挑んでいる。
 父と娘の、と見た方が、きっと判りよくそれが正しい。
 露伴の誕生祝いに、文がささやかな、けれど尽くした膳を差し出す。戦後二年の話だ。露伴の美食は知られている。死の病を持った露伴は起きあがれず、膳を布団の上に置くように云う。膳の粗末さを文は恥じている。見られたくない。膳をよく見ようと露伴が膳を引く。見られたくない文がそれを押さえる。揺れて椀が溢れる。露伴が笑う。
 露伴の、最後になった誕生日の膳である。
 明治の文士が二人、そこにいる。


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