散歩屋,涵梅舫(カンメイホウ),死にました |
先日思いついた「(犬のじゃない)散歩屋」について考える。 知人の連れ合いである北尾トロさんが「寝室覗き屋」という怪しい職業体験を書いていて、 北尾さんがやっているブックカフェに行ってみようと思ったら、昨年閉店していた。
決算も終わったし、誰かと飲みたい気分。ロンドン時代の友人Tから 「詩子の包丁欲しい!食事会しよう」とメールが来たので、 緑さんとMも誘って北京宮廷料理「涵梅舫」。
着いたのが21:00過ぎで、ラストオーダが22:00。しかし目移りしてなかなか決まらない。 烏賊の黒豆炒め、筍とアスパラ炒め、海鮮湯麺、やっぱり美味しい。 そのほかいろいろ頼んで、みんなも喜んでくれて嬉しい。
ある時点から私と親交の途絶えた人が「『真理ちゃんは元気?』って言ってたよ」とT。 「連絡してみれば?」とも言われたが私は「死にました」と伝えて欲しい。 そんな役目はご免だろうからTにはお願いしないが。
この話で朝日新聞に九鬼伸夫という医者が書いていた文章を思い出した。
「仕事であれ、大切な人であれ、そしてそれが自分の意志によることであれ 反したことであれ、人が何かと別れるとき、失われるのは仕事や愛する人だけではない。 大切な仕事や、愛する人によって生きていた自分もまた、失われる。 それまでの自分が死ぬのだ。
この死は肉体の死よりずっとゆっくり進み、その間、人は、古い自分でも、 生まれ変わった新しい自分でもない、あぶなっかしい何かであり続ける。 このプロセスをより深く体験し、再生するために、人は旅に出たり、 どこかへ身を隠したり、祈ったり、昔からしてきたのだろう」
意志を持って親交を絶つ、というのは相手を「殺す」ということではないだろうか。 言葉や行為に反応しない、無視するというのは存在を消すことだ。 殺された相手に「元気?」と聞かれたら「きちんと死にました」と答えたい。
九鬼氏の文章はこう続く。 「でも、時がくれば、きっと生命は新しい芽を吹く。 そのようにして生まれる新しいあなたを、必要とする人が必ずいる。 そう信じて、静かに待つしかないのではないか。本人も、また周囲も。」
そして私は高橋玄監督のくれた言葉を思い出す。 「新たな出会いの継続、別れの継続こそが生きる価値のある人生。どうもありがとうね。」
だから恨んじゃいないのさ。私はしっかり生き返ったから。ん、まだあぶなっかしい?
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2002年04月06日(土)
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