無責任賛歌
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| 2005年02月01日(火) |
「ポリープ」って音の響きは美味しそうなんだが/舞台『ジャン・コクトーの「声」より』 |
朝から下剤飲んで、病院で内視鏡の検査。 以前も経験があるので、詳細は省略。ケツカメラは前はかなり気持ち悪かったんだけれど、今回は体力消耗してたせいもあるのか、腹がちょっと張るくらいで苦痛はなかった。前回同様、今回もポリープ発見。カメラで見た印象は、腸壁に張り付いたマッシュルームみたいである。 どうやら私は定期的にポリープができる体質らしい。放たっといたら腸の中ポリープだらけになるんか? ってことは、ケツカメラも定期的に突っ込んでもらわなきゃならんってことかよ。トホホ。 大雪の中、帰宅して夜まで寝る。
6時過ぎからお出かけ、キャナルシティ横の「ぽんぷらざホール」で、制作集団アントンクルー番外公演『ジャン・コクトーの「声」より』を見る。 地元劇団の芝居はあまり見ない。自分とこの劇団もそうだけれど、やっぱねえ、一人よがりな人間ばっか集まっててさ、「一般の人に見せられるもの」をちゃんと作ろうってところが少ないから(ウチがカンパ制でおカネ取らないのは、練習見てるとどうしても「そんなんで芝居やってるつもりか」って思いがしてしまうから)。 だからと言って、地元劇団の芝居は絶対見ないとまでは思わなくて、芝居の企画によっては「これは面白そうだ」と思って見に行くことがある。ハッキリ言えば80年代以降の小劇場演劇作家の作品を扱った演劇はどこの劇団が演じても大同小異でもう見たくはない。今回はジャン・コクトーが原作ということで興味を持った。
男から別れを告げられた女。 寂しさに耐え兼ねて、女は睡眠薬で自殺を図るが、友人マルトに助けられて一命を取り止める。そしてその翌日の深夜、女は男からの最後の電話を待っている。 電話のベルが鳴る。しかしそれは男からのものではない。1920年代のパリでは、電話の混線は日常茶飯事であった。見知らぬ女から何度となくかかってくる電話に苛立つ女。ようやく男からのベルが鳴る。 女は昨夜の自殺未遂を悟られないように、明るく振る舞う。しかし、男のつく嘘に気付いたとき、女もまた嘘の上に嘘を重ねるようになっていた。 そして、再び混線する電話。電話の向こうの、名も知らぬ女は、ずっと、二人の会話を聞きつづけていたのだ……。
びっくりしたのはやはり主人公の「女」を男性に演じさせていたことだ。これはかなりな「冒険」で、大失敗に終わることも覚悟の上の勇気ある演出だと思う。 多少、女顔した男性なら、黙って立っているだけなら女に見えなくもないが、声を出して動いてしまうとこれはもうどうにもごまかしようがない。演技力がある俳優であっても、完全に女になることはできるものではない。ましてや、ヘタクソが演じればこれはただのオカマにしか見えないのである。美輪明宏などは、「男でも女でもないもの」として存在しているが故に圧倒的な存在感を観客に感じさせてくれるが、あの域にまで達するのはそんじょそこらの俳優には殆ど不可能に近い。 だから主演の菊沢正憲氏、熱演ではあるのだが、首の動きや足さばきにところどころ「男」ないし「オカマ」が見えてしまうのはいかんともしがたいのである。けれど、プロの役者だってこんな演技をやれと命令されたら「やれるかい」と逃げたくなる人も多かろうから、果敢に挑戦されただけでも素晴らしいし、少なくとも1時間は舞台を持たせることはできたのだから、決してひどい出来ではない。女には見えないからこそ、観客は自らの想像力を駆使して「見立て」ようとする。その想像力を阻むほどにヘタならば問題なのだが、そこまでのことはなかったので、充分演劇として成立していると言えるだろう。元気がありすぎて女の孤独までは感じられなかったのが残念だが。衣裳もユニセックスなブラウスにスラックスで、へたにスカートなどを履かせて「女」を強調しなかったのもよかった。
コクトーと言えば不条理劇という印象があるが、これは随分とストレートな芝居のように見える。しかし、姿の見えぬ相手と「声」だけで繋がる「電話」の存在自体がコクトーにとっては不条理極まりない存在だったのであって、ましてやそれが自分が全く知らない女に聞かれ続けているとなれば、これは恐怖を喚起する悪魔の道具にすら思える。現代では、コンピューター制御でこんな混線は殆ど考えられなくなってしまったが、ちょっと前だと携帯電話の盗聴問題は携帯の普及を阻む大問題であった。 顔の見えない無情な声、耳には届かない気配だけの声が、女の心を侵食していくこの芝居は、普通の芝居のように見えて実はやはり「現実の不条理」を描いたものなのである。 そういったコクトーの感覚が現代人には伝わりにくくなっているだけに、『声』を舞台に乗せるには演出上の工夫がかなり必要だろうと思われるが、そういう点にはあまり注意を払ってはいなかったようだ。電話をわざわざフランスから昔のものを取り寄せたり、小道具には凝っていたけどね。
アニメーション映画賞関係のニュースも、残すところはアカデミー賞くらいになってきたが、その前哨戦ともいうべき第32回アニー賞が、先月30日に発表。 作品賞のノミネートは『イノセンス』『Mr.インクレディブル』『シュレック2』『The SpongeBob SquarePants Movie』の4本で、最有力候補は『インクレディブル』だった。結果は大方の予想通り、『インクレディブル』が作品賞を獲得。それどころか、監督賞、音楽賞、アニメ効果賞ほか、10部門を制覇するという快挙である。 『インクレディブル』の映画自体は私も感嘆して見たし、作品賞受賞自体に反対はないのだが、さてまあ『イノセンス』が一部門も受賞できず(作品賞、監督賞、アニメ効果賞、音楽賞でノミネート)、『インクレ』が10部門全部受賞となると、アメリカは自国ビイキが過ぎるなあと思ってしまう。いや、世間の評判に引きずられて、審査員がみんな「インクレ熱」にかぶれただけではなかろうか。どうしてもそんな風に疑ってしまうのは、「最優秀声優賞」が、『シュレック2』のアントニオ・バンデラスや『インクレ』のサミュエル・L・ジャクソンら錚々たるメンツを蹴散らして、エドナ・モード役のブラッド・バード監督本人に与えられた、という冗談のような結果ゆえにである。そりゃあねえ、確かに女性の声にしか聞こえない名演だったなあと思いはするけれども、ブラッド・バードは美輪明宏じゃないでしょう。ヒッチコックの作品で助演男優賞に監督本人を選ぶようなもんで、ファンは喜ぶだろうけれども賞としては問題があるんじゃないか。 同様に、『イノセンス』がその思想性から作品賞は敬遠されるとしても、アニメ効果、音楽に関して言えば、『インクレディブル』が『イノセンス』より優れているとは言い切れないと思う。「インクレびいき」が、『イノセンス』の評価を総体的に貶める結果になってるんじゃないかといささか腹立たしい気持ちにすらさせられてしまうのだ。 CGアニメーションの進化を認めるに吝かではないのだが、それでも生身の人間の「感情」を表現するのにCGキャラクターは「余白」がなさ過ぎる。それに気付かずにCGアニメに馴らされてしまっているアメリカ人の鈍感さでは、商業アニメ以外のアートアニメーションの表現力は決して理解できないのではないだろうか。 さて、そしていよいよ残るは「本命」アカデミー賞であるが、これも十中八九、『インクレ』が受賞するだろう。対抗馬の『シュレック2』『シャークテイル』だが、前者は敵としてはお話にならないくらい寒々とした出来映えで、後者は未見だが予告編を見る限りではやはり二歩も三歩も後塵を拝しているように思われる。 昨年、アカデミー賞は、“アメリカ以外のほとんど全ての国で”映画賞を受賞しまくったシルヴァン・ショメ監督の傑作『ベルヴィル・ランデブー』を落として、出来としてはそこそこの『ファインディング・ニモ』を受賞させた。今年は、アニー賞に作品賞にも監督賞にもノミネートされなかった『シャーク・テイル』をノミネートして、『イノセンス』を落とした。アカデミー賞は作品の出来だけではなくて、「ヒットしたかどうか」も考慮に入れると言うが、だったら一昨年、小ヒット程度の『千と千尋の神隠し』に受賞させたのはおかしいということになる。なんだかそのときの「意趣返し」のように身ビイキをしているようで、もう散々言われているアカデミー賞の「不透明性」を感じてしまうのである。 これで来年『ハウル』が作品賞を受賞でもしたら、やっぱりかなり「政治的判断」が作用したと思われても仕方がないと思うけどね。なんとなくそうなりそうだなあ。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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