無責任賛歌
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| 2003年02月18日(火) |
迷宮の扉へ/『冥土』(内田百�痢Χ皸翕脹冂纏辧法拭悒廛螢謄�フェイス』3巻(叶恭弘) |
押井守ファンならば必見、都々目(とどめ)さとし氏が運営するファンサイト『野良犬の塒(ねぐら)』に、去る15日夜にテアトル池袋で行われた、『押井守シネマ・トリロジー/初期実写作品集』発売記念として開催されたオールナイト上映、「押井守ナイトショウ」のレポートが掲載されている。 押井守のアニメは好きだけれど実写はちょっとな、という人も結構多い中、DVDがBOXで発売というのだから、巷間、言われているほど評判は悪くなかったんじゃないか。私自身、『紅い眼鏡』は退屈するどころかワクワクしながら見た。ついでだが、あの映画完成の直後、月見の銀二を演じられた天本英世さんにお会いする機会を得たが、ご感想は「あれもヘンな映画でねえ」だった(^_^;)。さて、天本さん、今は押井さんのことを覚えてらっしゃるかどうか。
押井守の映画を見て、「なんじゃこら? 意味わからん」と仰る方は多いが、ドイツ表現主義の『カリガリ博士』だの、フランス・ヌーヴェルバーグのトリュフォーやゴダールだのの映画を見てれば、別に押井守の映画は難解でもなんでもない。要するに全ては「見立て」の世界なんで、短歌や俳句を鑑賞する気で映画を見ればよいのだ。 そういう「趣味の世界」につき合わされることを憤慨する人もいるが、映画は基本的に監督の趣味の産物である。その「趣味の世界」は入口こそ狭いが、中に入ると一気に空間が爆発的に拡大する。隠喩による情報量が半端ではないのだ。まさしく、その意味を解釈する楽しみがそこに生じてくる。 どっちかと言うとね、私ゃ、ルーカスやスピルバーグの、わっかりやすすぎるくらいに単純な、間口は広いけど、中に入るとウスイ空気しかない世界につき合わされる方がずっと苦痛なのよ。 押井守を人に奨めることは、単に映画を見てもらうってだけでなくて、「同好の士を募ること」、もっと極端に言えば、自分たちだけの非常に狭い世界(まあ、小さな「宗教」と言ってもいいですな)にその人を引き込もうとする行為だとも言える。まあ、胡散臭いと言われても仕方のない行為だ。 おかげで、ことあるごとに押井守の実写映画を見せてはいるのだが、今のところ、私の周囲で『紅い眼鏡』を気に入ってくれた人は、しげとよしひと嬢くらいしかいない。よしひと嬢は、今度のBOXが、「どうして『紅い眼鏡』と『ケルベロス』と『人狼』の三部作じゃないんだ!」と憤慨するほどに入れこんでくれた(^o^)。『トーキング・ヘッド』も「押井守映画論」として楽しい出来なんだけどなあ。
しかし、ここに来て、状況は随分変わってきた。 以前出たLD−BOXの解説では、友成純一さんが、いかに押井守の実写映画の世間受けが悪いかを語っておられたが(^o^)、『人狼』や『アヴァロン』を経て、改めて押井守の原典を知りたいというファンも増えてきたのではないか。 ナイトショウでの押井さんの発言を引用してみよう。
> 「ごく稀に僕の実写が好きな人もいることは知っているけど、大方の人の評判は悪い。お客さんが来ないしビデオも今ひとつ売れない。このBOXも、2000個出ればいいところじゃないという話をしていたんだけど。でも蓋を開けてみれば5000も受注を頂いて感謝しております」 > 「アニメが本妻で実写は愛人というわけではない。僕には本妻がいないという気がしている。アニメーションで違和感を感じ、それで『アヴァロン』を作ったのだから。アニメーションの違和感がこの実写三本に表れており、非常にプライヴェートなBOXになっているという気がする。これを予期しないほど買ってくれる人がいそうだということで意を強くした。こういう形で世に再び出ることで、僕の映画は生きている。公開当時は評判悪かったけど、『紅い眼鏡』もまだ余命を保っている」
余命を保ってるなんてもんじゃない、『紅い眼鏡』は全編、どこを取っても「映画」に満ち溢れている。予算がないのがどうした、それでも映画は撮れる! そういう気概に満ちた圧倒的な情熱がこの映画を支えているのだ。 千葉繁のシャワーシーン! 玄田哲章のダンス! 鷲尾真知子のチャイナ! 運転する大塚康生! 塗り箸を折る天本英世! イマイチ出番がないぞ田中秀幸! チラッと出てるぞ永井一郎&古川登志夫&立木文彦!(声優さんほかにも多数出演) そして、「紅い少女」兵藤まこのとんでもなく尋常ではない美貌! 『8時の空』に出てるころからファンだったけどさ、これはもう「奇跡」と言っていいくらいだね。最初見たとき、マジで「天使がここにいる!」って思ったもの。 まあ、騙されたと思って、このBOX買ってごらんなさい。あなたの人生、変わるわよ♪
昨日から、しげとぴんでんさんが、ウチの掲示板で謎のヤリトリをしている。 最初に私が、こないだ見たばかりの映画、『火山高』と『黄泉がえり』と『スコルピオンの恋まじない』(うっかり「恋わずらい」と書いたら、しげが烈火のごとく怒った。ダン・エイクロイド絡みだと常軌を逸するのである)について、簡単に感想を書きこんだのがきっかけ。
> 『火山高』 > いやあ、『少林サッカー』より遥かに「濃く」っておもしろい。 > ヘタなギャグを入れずにもうマンガチックな世界をマジメに映像にしてるからカッコいいのだね。ただ、学園ものマンガがそもそも嫌いって人にはキツイかも。 > 『黄泉がえり』 > ……SFじゃなくなってるなあ。これくらいお話を薄めないと、一般の人にはウケないのかなあ。柴崎コウのエピソードがセリフの全くない演出で、一番いい。 > 『スコルピオンの恋まじない』 > ウディ・アレンはここんとこ「普通の」コメディばかり作っている。それをヨシとするか才気が失せたと見るかは人それぞれだろうけれど、妙に文明批評みたいなもの作られるよりはこっちのほうが私は好きだな。
どうせ後で詳しい感想は日記に書くんだし、と思って、至極、簡単に書いたのだが、ぴんでんさんが付けたレスは以下のようなもの。
> しげ。ちゃんへ > ね、言った通りだったでしょ?(笑)
……謎である。何やらぴんでんさんとしげとの間でヒミツの会話があったようだが、何か私に隠しておかねばならないことでもあるのだろうか。 いや、これは別に、私の知らないところでしげが何をしてるのか気になってしまうとか、そんなことではなくて、もちろんヤキモチを焼いてるとか嫉妬してるとか悋気を起こしてるとかジェラシッてるとかそういうことではなくて、なんというか、そのう、まあ単に、謎の言葉は引っかかってしまうというのがミステリファンの心情なのである。 壁に“Rache”と書いてあったら、「レイチェル」って女のことじゃないかと考えませんか。
で、今日、しげが付けたレスも意味深である。
> ああ、確かに(笑)。
「確か」ということは「確かである」ということであって、「確実だ」とか「絶対だ」とか「間違いない」とか「不確定な要素はありえない」という意味であって、決して「のんきだ」とか「ご一緒にポテトはいかがでしょうか?」なんて意味はないのである。 いったいどういう意味だろうと3分28秒ほど考えたが、いかな名探偵と言えども、データが余りに少なすぎると、真実には辿りつけないのである。 だもんで、一番安易な方法、「本人に聞く」という方法を取ることにした。
「このやりとり、どういう意味?」 「ああ、それ、オレも一瞬わかんなかったんだけど、前にぴんでんさんが『有久さんは日本映画を貶してばかりいる』って言ってたから」
なんだ、そんなことか、と拍子抜けしたが、ふとヘンなことに気がついた。 この三本のうち、日本映画は『黄泉がえり』であるが、私はこれをそんなに貶してはいない。いや、欠点はいくらでもあるのだけれど、全体としては楽しく見たのである。「SFじゃなくなってるなあ」とは書いてるが、小説と映画は別ものだし、これは単なる事実の指摘に過ぎない。何より「柴咲コウがいい」と、ちゃんと誉めている。 映画を見た直後も、実は私は『黄泉がえり』に満足して、「設定がいいねえ」と言ったところ、しげの方が「設定以外に何がいいの?」とニベもなかったのである。だから、私とそういうヤリトリをしているしげが、「ああ、確かに」と答えているのもおかしい。辻褄が合わぬのである。 これはもしかすると、私が日本映画を貶してばかりいるとぴんでんさんが言ったというのは、しげのウソなのではないか。 考えてみたら、この日記を通読されている方ならお分りだろうが、私は別に日本映画を貶してばかりなどいないのである。と言うか、日本映画を誉めてる率のほうが圧倒的に高い。ハリウッド映画を貶すことも多いし、ずっと私の日記を読んでいらっしゃるぴんでんさんがそんな発言をするはずがない。 ではなぜしげはウソをついたのだろう。 いや、私は何と言うか、しげがぴんでんさんに口止めをされているとか、そんな疑いを持っているわけではサラサラなくて、もちろん、ぴんでんさんを信頼していないというわけでもなくて、信頼しているからこそ、そんなことを言うはずがないと思っているし、本当は全く違った会話だったんじゃないかと思うけれども、だとしてもそれをキチンと書かないのはヘンだなあとか思ってはいるけれども、だからと言ってそこに何か深い意味があるとか勘繰っているわけでもなくて、けれど「あれは何なんですか?」と今度はぴんでんさんに聞くのもヘンだし、第一、たいしたことでもないからぴんでんさんは詳しくは書かなかったんだろうし、ああしてワザと短く書いているのは、そこは追求しないでね、という謂だろうし、それにしてもだから何なんだ。
恐らく真相は、しげの伝達能力はヒドイものだから、ぴんでんさんの言葉を正確には伝えていない、ってなところだろう。 「日本映画」という単語くらいは合ってるかもしれないが、あとはどうにも疑わしい。じゃあ、どんなことをぴんでんさんが言われたのか、あとは推測するしかないのだが、「日本映画に対する分析の方が、外国映画への見方よりも濃い」と言ったようなニュアンスではなかったか。 そう考えれば、しげが、「濃い分析をする→厳しい見方をする→貶してばかりいる」と脳内で誤変換した過程がスンナリ想像できるのである。 まあ、当たってるかどうかはわからないが、暗号のような会話をされてしまうと、ミステリファンの血が騒ぎ出してしまって心臓に悪いので、ちゃんと明快な言葉遣いをお願いしたい。いや、だからこれはヤキモチとか嫉妬とか悋気とかジェラシーとかではなくて。
仕事帰りの車の中で、しげから職場の楽しい話を聞く。 劇団の愛上嬢が、しげと同じリンガーハットで働いていることは以前もこの日記に書いたが、今んところちゃんと続いているらしい。 「らしい」というのは、しげは夜、愛上嬢は昼の勤務で、滅多に顔を合わさないからだが、店で働いてる人の中には、昼夜の両方に出勤してる人もいて、その人が愛上嬢のハタラキぶりをしげ教えてくれたんだそうである。 「言われたことしかしない」というのは新人さんだから仕方がないにしても、何が周囲が困ったかというと、愛上嬢の「声がデカイ」ということだそうな(^_^;)。 愛上嬢は話好きである。あまりに話好きで、周囲が聞いていなくても延々と一人で喋り続けて、お喋りに熱中するあまり、周囲が聞いていないことにも気づかないくらいである。 いや、一時期愛上嬢、ウチに頻繁に電話かけてきてたことがあってさ、それがもう、脈絡はないわ、結局はただの愚痴のヒトリゴトだわで、聞いててツライのなんの(+_+)。悪意がないから無碍にはできないんだけれども、今もあの調子だとすると、付き合わされてるほうは確かに困っちゃうだろう。 で、芝居やってるから、声がデカイってのも分るのだ。結婚して、半引退状態にあるけれども、ウチの劇団で一番の演技力の持ち主だったんだから。 厨房から他愛ない世間ばなしがホールの方まで延々とBGMのように流れていたら、客も困るだろう。 「……どんな感じで喋ってるわけ?」 「なんかね、天気の話とか家庭の話とか、延々してるみたいよ」 「つまりなんだ、『今日はあったかいですねえ、ずっとあったかいといいですねえ、昨日は寒かったですからねえ、明日もあったかいといいですねえ、明後日はどうなるでしょうねえ』なんてことを喋り続けてるってこと?」 「そんな感じらしいよ」 それは……たまらんだろうなあ(^.^;)。 でもそんな他人事のように言ってるしげだって、実は職場で「動きが芝居っぽい」と言われているのだ。どうも何か動くたびにポーズを決めるクセがあるからだとか。 ……ウチの中でもしょっちゅうやってるわ、それ。 └|-.-|┐ ←こんなの。
内田百�虜遏Χ皸翕脹冂纏匆茵慳重據戞淵僖蹈觴法�2415円)。 パロル舎の「文学絵草紙」シリーズ第四弾。 版画家・金井田英津子さんが取り上げてきたのは、萩原朔太郎の『猫町』や、夏目漱石の『夢十夜』など、幻想小説の佳作ばかりだが、内田百�里慮諺枉�説とは、前二者とは少しくその質が異なる。 「幻想」はもちろん「夢」であり、朔太郎も漱石も、自らの「夢」を小説という形で昇華させているのだが、百�里里修譴蓮∨悗斌戯邂戞�見た夢をそのまま綴ったような「とりとめのなさ」が感じられるのだ。そしてその夢にいつも絡んでくるのが「女」の影である。 本書に収められているのは『花火』『尽頭子』『烏』『件』『柳藻』『冥土』と、本来は脈絡なく書かれた六つの短編だが、装丁を担当した金井田さんは、各短編の表紙に「道」の絵を配し、それをアニメーションのように進ませて、最後に荒涼たる草の土手の向こうにある「冥土」へと案内して行く。 そしてそれぞれの短編に、密接に「女」が絡んでくるのだ。
主人公はみな「私」である。漱石の『夢十夜』は必ずしも全ての短編が一人称では書かれていなかったが、百�里慮譴蠎蠅肋錣法峪筺廚澄� 『花火』では、紫の袴の女が花火の立つ葦の原を横目に土手を越え、座敷へ「私」を誘う。そこで「私」は足萎えになる。 『尽頭子』では、狐のような愛人の家で「私」は、ムリヤリ馬に灸を据える先生の弟子にさせられる。 『烏』で「私」は、宿の女に案内されて、烏の羽を毟る男の隣室に泊まらせられる。 『件』で、吉凶の予言をするという「件」に変身した「私」を、村の人々がその予言を聞こうと取巻く。これには唯一「女」が出てこないが、夜空には女を象徴するような黄色い大きな月がかかっている。 『柳藻』の「私」は、妖婆に使われていた可憐な少女を救い出す。 そして、「私」の旅は、もはや誰もいない『冥土』へと赴くのである。
百�里諒絃呂老茲靴篤匹澆笋垢い發里任呂覆ぁ� いや、別に難解な語彙や、凝った言いまわしをしているというわけではない。語られる言葉自体は実に平易だ。しかし、その言葉の先に何があるのかが一向に見えないのだ。 どこまで行っても尽きない黒板塀の道。 百�里寮こΔ紡�を踏み入れたとき、私たちは、出口の見えぬ迷宮に入りこんでしまったことに気づくだろう。 それが、「恐怖」の正体だ。
マンガ、叶恭弘『プリティフェイス』3巻(集英社/ジャンプ・コミックス・410円)。 予想通り、アッサリと美和先生は由奈(実は乱堂)を疑うのをやめました。ちゃんちゃん。 いや、話はまだ続きますが(^_^;)。 それにしても、月刊ならともかく、週刊で次から次へとよくもまあ、これだけ由奈を窮地に陥れる設定を考えつけるなあ、とちょっと感心。この手の話は、昔『ふたば君チェンジ!』なんかでよくあろひろしがやってたけど、すぐ頭打ちになってたからなあ。どれもこれも全部ムリヤリギャグに見えるかもしれないけれど(実際そうなんだけれど)、これ続けるの、結構才能いるよ。 でも、新しい窮地を考えるたびに新しいキャラを増やしてくのはあまり得策じゃない。その場合、たいていのキャラは「使い捨て」になっちゃうわけで、美和先生もアッと言う間にザコキャラになってしまった。 新登場の植田望、由奈に「お姉さまっ」と突進してくいい味わいのキャラなんだけど、さあ、こいつも4巻以降、作者がちゃんと使いこなせるのかどうか。(2003.3.18)
2002年02月18日(月) くまくまくまっ/アニメ『エイトマン』第1話「エイトマン登場」/『すべてがFになる』(森博嗣原作・浅田寅ヲ)ほか 2001年02月18日(日) HPの原稿はまだ1/10程度です/ドラマ『百獣戦隊ガオレンジャー』第1話ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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