無責任賛歌
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| 2003年02月19日(水) |
メイキング・オブ・SF・レビュー/『川原泉の本棚』(川原泉・選)/映画『宇宙大戦争』『地球防衛軍』 |
昨日無理して仕事に行ったのが祟ったのか、朝から咳が全然止まらなくなってしまった。もう医者に行っても全然治らないことが分ったので、ただひたすらじっとしていようと、また仕事を休む。 もう二月近くも完治しないんだけれど、私もいい加減苦しむのには飽きた(-_-;)。 ヘタにウチにいるからと、料理したりして動き回っているからよくないのだ。食事は出前を頼むことにして、新しくできたカレーのデリバリーに配達を頼む。美味だが、価格はやや高め。八百円じゃ、そうしょっちゅうは注文できない。せめてあと200円、割り引きしてくれないものか。
韓国の大邱(テグ)市で、18日の午前中、走行中の地下鉄車内で放火とみられる火災が発生した。 死者は120人、負傷者も約140人。放火された車輌ばかりでなく、向かいから入ってきた車輌も巻き添えを食って、被害が拡大したらしい。管制局から停止の連絡がなかったから突っ込んじゃった、ということなのだが、その点を取り上げて、韓国地下鉄の安全管理の低さを伝えるのは、間違っちゃいないけれども何となく「日本に比べて遅れてる」って言いたげで、若干のイヤラシさを感じる。 というのもどこのチャンネルでも事故の報道のすぐあとで、「日本の地下鉄の安全管理がどうなってるか」ってのを付け加えてるのね。車両の難燃化・停電時の対応は充分できてますよって、強調してやんの。これって、安全性を訴える感じじゃなくて、どう見ても「彼我の技術の差」のほうがメインになってるよなあ。 一応、「放火された場合は日本の地下鉄も無防備だ」といってるけど、地下鉄でいちいちボディーチェックなんかできないから、そりゃどの乗り物だって無防備でしょ。 気になるのは放火したと見られる「軽傷を負って病院に搬送された乗客の男」だけれど、テレビずっと見てても名前もわからないままだし、続報が全然出ない。まさかこれも「人権に配慮して」ってことなのかね?
川原泉・選『川原泉の本棚 おすすめ本アンソロジー&ブックガイド』(白泉社・1155円)。 川原さんが相当な読書家だというのは、作中に触れられているSF作品へのオマージュなんかでも見当がつくのだが、こういうブックガイドまで出してしまわれるとは……。 イヤね、別に難癖をつけたいわけじゃくてね、こういうアンソロジーって、よくも悪くも選者のセンスが試されてしまうところがあるんで、よっぽど本を読み込んでる人じゃないと、ちょっと散漫なものになりかねないのね。 例えば、ミステリならミステリ、SFならSFとジャンルを絞っても、「なんであの作品を入れない」とか、「どうしてそんなのを入れるのだ」と外野が喧しく、挙句の果ては「あいつにはモノを見る目がない」と扱き下ろされてしまうのが、アンソロジストの宿命だったりするのよ。 だから、名アンソロジストと言われる人は、案外少ない。 私が感心したことがあるのは、筒井康隆『実験小説傑作選』や、唐沢俊一『カラサワ堂怪書目録』くらいのものだ。それくらいテーマを絞りこまないと、「おお、これは凄い」ってことにはならないのである。 では、川原さんのチョイスはどのようなものであったか。実はやっぱりアンソロジーとしては「散漫」ではあるのだが、案外つまらなくはないのである。なぜなら、これはあくまで川原さんが自分の本棚から引っ張り出してきた本ばかりであり、作品自体の面白さよりも、「へええ、川原さんってこんな本を読むんだ」という興味の方が先に立ってしまうからである。 要するに、「川原さんって、こんなヘンな(←いい意味で)人」ってのが見えてくるから楽しくなるわけだね。でもそういう読み方される作品の方はちょっとかわいそうだが。
川原さんが今回選んだのは、次の九編。 『ロビイ』(アイザック・アシモフ) 『おはよう寄生虫さん』(亀谷 了) 『水素製造法』(かんべむさし) 『言葉の戦争�機戞弊郷綉組蓮� 『品種改良』(田中芳樹) 『ヤマナシの実』(日本民話/坪田譲治編) 『ヘリコプターの飛ばし方』(非日常研究会) 『大うずまき』(エドガー・アラン・ポー) 『歴史新聞』(歴史新聞編纂委員会) 李家豊の(^o^)『品種改良』は『幻影城』に載ってたのを読んだ時に「なんてつまんないんだろう」と思った記憶が(^_^;)。 いや、個性派揃いの『幻影城』のメンツの中じゃ、田中さんの書くものって浮いてたんだよね。けど、川原さんの本棚に並べられると一番普通に見える。これがアンソロジーの不思議なところだ。 この並べ方って、最初は普通のスタートを切ったのが、コースがどんどん蛇行してって、障碍物なんかも置いてあって、しかもマラソンしてるつもりがいつのまにか走り幅跳びに棒高跳びも混じっているという……なんかこのたとえもワケわかんないな(^_^;)。 でもさ、自分の持ってる本を見せるって、一つの「ひけらかし」でもあるのに、そこに『おはよう寄生虫さん』を持ってくるのだよ、このひた〜。しかもそれを『ロビイ』のあとに載せる。『ロビイ』でちょっと涙ぐんだりしちゃった人は、次に『寄生虫』の淡々とした説明を読まされて、何をどう思えばいいのか。 私の場合、既に読んでる作品が殆どだったから特に混乱はしなかったけれど(『ヤマナシの実』だけ知らんかった)、この作品の全てが初読って人は、脳が相当混乱するかも。そういう人に本書の感想を聞いてみたいものである。
それにしても、人に本を推薦するというのは並大抵のことではない。 先日、ここの掲示板にあぐにさんが「なにか初心者にお勧めのSFなどありませんか?」と書かれたのを読んだとき、思わず頭を抱えてのけぞったら、そのまま椅子からコケ落ちて腰を打ってしまった。 アタマを抱えた理由は三つあって、一つは「そんなんどこまで紹介すりゃええんや、キリないやんけ!」という叫びであり、もう一つは「そんなにえすえふ読んどらへんわあ!」という劣等感、更にもう一つ、「えすえふなんてジャンル、もう死んどるわあ!」であった。
我々の学生時代、SFの浸透と拡散は既に言われていたが、それでもSFを読むことは「基礎教養」であった。 ハヤカワの銀背は既に高値を呼んでいたが、海外作品はハヤカワSF文庫・創元SF文庫・サンリオSF文庫を読んでいけば有名どころが手に入らないということはなかったし、国内作品も前記のところだけでなく、角川文庫が中心になって、星新一・小松左京・筒井康隆ほか、代表的な作家たちはみな収められていたし、読めない作品の方が少なかったのだ。 SF雑誌も、「SFマガジン」「SFアドベンチャー」「SF宝石」「SFイズム」「奇想天外」と老舗に新創刊と合わせて、みんなで回し読みをしていた。 若い人は、なんてステキな環境でしょう、と思うでしょう。 そんなもんじゃないのだ。
なにしろ、友達はみんなSFを読んでいたし、そしてSFに燃えていたのだ。 寄ると触るとみんなSFの話ばかりしている。「SFを語らずして何を語るか」ってなスローガンのもと、私のいた文芸部内の仲間うちでは、いつの間にか「SF勉強会」みたいなものまで開かれていた。 今やそんな状況、誰も信じないかもしれない。でも、ウソのような本当の話だ。 私のような非才の身には、みんなの話題に付いていくのは辛くて仕方がなかった。なんたって、毎週毎週、「読まなければならない本」が怒涛のごとく押し寄せてくるのだ。
「来週までに読んできてね」 文庫本をそう言って私に手渡すと、彼女はほんの少しだけ唇の端に微笑を浮かべて、文芸部の部室をあとにした。長い髪が風になびく、というのは陳腐な描写だが、でもまさにそんな感じで彼女は立ち去っていった。 勉強会は、次に読む本を当番制で決めていく。概ねみんな、自分のカネで本を買っていたが、ちょうど金欠病、という場合もあったから、そんな時は本の回し読みはよくやっていた。 今回の本は、彼女の選択。有名なSFだけど、まだ読んだことはなかった。女の子に本を借りるなんてことは滅多になかったから、緊張した。それにその子にはちょっとだけ憧れていた(高校時代の友人もここたまに覗いてるんだよなあ、誰のことか見当つけられたらヤバイなあ(^_^;))。 今ならその作品は、たいして滞ることもなくすんなり読めたかも知れない。 けれど当時の私には、よく分らないえすえふの専門用語を目にするたびにアタマの上にクエスチョンマークが浮かびまくっていた。 本のタイトルは、『夏への扉』。もちろん、竹宮恵子版ではない(^_^;)。 勉強会でどんな感想を言ったかは覚えていない。
ともかく当時は、SFを読んで読んで読みまくって「勉強」するしかなかった。そんでもって、カッコつけたモノイイもしてみた。 あるとき、俄仕込みの知恵で「SFの定義はね」とか言ったら、「定義のためにSFがあるんじゃないんだよ?」と彼女にちょっとキツイ口調でたしなめられた。 ヤケになって「SFなんてな」と言ったら、激怒した友人に「撤回しろ!」と突っかかれて論争になり、夜まで帰れなかった。
けれど、楽しかった。 むりやり読まされた本でも、読み始めたら夢中になった。 好きな子には告白することはなかったけれど(まあ、そういう子は私の場合、腐るほどいるから)、あれも私の青春ではあった。 色気ないなあ、と今の人には思われるかもしれないが、あのころ、そんな風景は日本中のあちこちで繰り広げられていたと思う。
今や、若い人たちのSFに対する感覚はまるで変質してしまった。今や、誰もSFの魅力を語る者はいない。その惨憺たる状況は、岡田斗司夫さんが「かつてSFというものがあった」と語るほどだ。 SFの魅力とはなんだろう。センス・オブ・ワンダー? そんな言葉、もう黴臭くなっちゃってるよ。そう嘯く人もいるだろう。 『アルジャーノンに花束を』って、SFだったの? そう口にする若い人もたくさんいる。 そんな中で、あえて「SFを語る」とはどういうことなのか。 SFってなに? もう一度そこから始めなければならないのかも。 でも、それはなぜ?
あぐにさんに何を推薦するかで散々悩んだ末に、私が結論を出したことは、「今のことはもうどうでもいいや、昔に戻ろう」であった。 というか、それしかできない。 私がSFを一番好きだったのは間違いなくあのころであったし(今でも好きだけれども)、たとえ青臭くとも、あのころの感覚で作品を選び、紹介した方が、あぐにさんの言う「初心者向けに」という求めに答えられるんじゃないかと思ったからだ。
選んだのは、とりあえず昨日までで以下の通り。いくつかの作品にはレビューの文章もつけた。
レイ・ブラッドベリ 『火星年代記』『太陽の黄金の林檎』『何かが道をやってくる』『ウは宇宙船のウ』 フレドリック・ブラウン 『発狂した宇宙』『火星人ゴーホーム』『天使と宇宙船』 ロバート・A・ハインライン 『異星の客』 ポール・アンダースン&ゴードン・ディクスン 『地球人のお荷物』 ハリイ・ハリスン 『テクニカラー・タイムマシン』 トム・ゴドウィン 『冷たい方程式』 アイザック・アシモフ 『鋼鉄都市』『はだかの太陽』『われはロボット』『アシモフの科学エッセイ』シリーズ ジェイムズ・P・ホーガン 『星を継ぐもの』『ガニメデの優しい巨人』『巨人たちの星』 アーサー・C・クラーク 『決定版 2001年宇宙の旅』シリーズ
中には絶版でもう手に入らないものもあるが、あぐにさんから頂いたレスでは、古本屋も回られると仰っていたから、全部ではなくともある程度は手に入るだろう。 「お勧めSFまだまだ沢山ありそうで楽しみです」とはありがたい言葉だが、私は前述した通り、感覚的にはナマイキな高校生に戻って書いているのである。そのために、ここに挙げた本は全部ひと通り読み返して、「あのときはどんなふうに感じながら読んでたかな」と思いだしながら書いた。文章が生硬なのは(いつもそうかもしれないが今回は特に)そのせいである。
ただ、『火星年代記』だけは持ってたはずの本がどこへ行ったか分らなくなっている。多分、しげに貸したまま、どこかにほっぽらかされているのだ。 おかげで、この文だけ記憶のみで書いている。ちょうどいい恥晒しだから、これだけ日記に移しておこう。掲示板の方は流れちゃうと保存が利かないんでね。
> 『火星年代記』(ハヤカワ文庫 NV 114) レイ・ブラッドベリ (著), 小笠原豊樹 (訳)¥640 > ブラッドベリをSF作家と認めたがらないSFファンも結構います。 >「あれはファンタジー作家だ」 > この本が「SF」じゃなくて「NV」のコーナーにあるのもそのせいかもしれませんが、SFと叙情性の融合がこれほど見事に描かれている例はそう多くはありません。強いて言えば、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』オリジナル版くらいでしょうか。 > 地球から火星への移民が始まったころの未来。 > しかし、火星ロケットの乗組員たちは次々に失踪してしまいます。 > 実は火星には、「先住民」たちがいたのです。彼らは当然「侵略者」たちを好ましくは思っていませんでした。彼らはいかにして、侵略者たちを排除していったか。 > ……それでもなお続けられる移民計画。 > そして時は静かに流れていきます。 > 火星人と地球人の戦いはどうなったのか。最後に火星の大地に立っていたのは……。
時が静かに流れているのは、その間にどんな出来事があったかを忘れているからである(^_^;)。……しまった、映画版のビデオを見て、書きゃあよかったか。
CS日本映画専門チャンネルで、『宇宙大戦争』に『地球防衛軍』。 『防衛軍』の方は、これで見たのが何度目なのか、分らないくらいだが、『大戦争』は実はまだ二回目。こちらの方は前者に出てくる「モゲラ」のような明確な怪獣(じゃなくて巨大ロボットだけど)がいなかったから、テレビで流れていても見逃していたのだろう。最初に見たのも多分小学生のころだから、記憶もとうに歴史の彼方(^o^)。 てなわけで、『大戦争』は殆ど初見に近く、ニュートラルな感覚で見たので、意外に面白かった。ナタール人の基地破壊のシーンは単調で、ちょっと退屈してしまったが。
意外に気づかれていないが、この二作は前後編である。 放送順が逆になっているけれども、『地球防衛軍』が1957年の製作で、『宇宙大戦争』が1959年製作。 原作は探偵作家・丘美丈二郎(映画のクレジットは「丘見」となっているが、こちらが正しい)。両作とも、宇宙人による地球侵略がそのテーマとなっていて、登場人物も、地球側で宇宙人の侵略に対抗するのは安達謙治郎博士である。ただ、安達博士を演じているのが『防衛軍』では志村喬、『大戦争』では千田是也と役者が変わっているので、前後編であることに気づかれにくいのだ。 この後、『妖星ゴラス』と『宇宙大怪獣ドゴラ』と日本の東宝特撮映画の原作を担当しているから、それも含めれば丘美丈二郎四部作ということもできる。ただ原作と言っても、小説の形で書かれているのは『地球防衛軍』だけのようだ。
映画については、いっぱしの特撮オタクなら当然見ているはずだし、今更あらすじを解説するのも気恥ずかしいから、比較的知られていないと思われる原作者の丘美氏について触れてみたい。たいていの人は映画を先に見て、「この丘美って人、どんなヒト?」と思っただろうが、探偵小説ファン、SFファンには旧知の人物なのである。 丘美丈二郎は、本名兼弘正厚、1918年(大7)、大阪出身で、東京帝国大学工学部卒業後、しばらくは進駐軍に勤務。日本の役人の、米兵へのヘイコラぶりに嫌気がさし、鬱憤バラシに探偵小説・SF小説を書き始める。 1949(昭和24)年、『翡翠荘綺談』が『宝石』のC級短編コンクール三席に入賞し、『別冊宝石』に掲載それ、以後、『宝石』を中心に10年ほど活躍する。 1950(昭25)年には、『勝部良平のメモ』が『宝石』のB級中編コンクールの二席に入賞、1953(昭28)に『宝石増刊』に掲載されたSF長編『鉛の小箱』が、1954(昭29)年に第7回探偵作家クラブ新人奨励賞を受賞する。 他の作品に、『三角粉』『空間の断口』『空坊主事件』『耳鳴りの女』『ヴァイラス』『種馬という男』『二十世紀の怪談』『恐怖の石塊』『左門谷』『汽車を招く少女』『ワルドシュタインの呪い』『波』『電波公聴機』など。掲載誌を全部当たったわけではないので、発表年は順不同。
中でも、特筆したいのは、長編『鉛の小函』と、『宇宙の警鐘』<1958(昭和33)年『科学画報』>の二作であろう。 『小函』は、見知らぬ外国人に拉致された元海軍技術パイロット・白嶺恭二が、ユダヤ人の科学者・アイゼンドルフ博士の手によって秘密裏に建造された宇宙艇に乗り、宇宙探索の旅に出る物語である。……って、まんま『スター・トレック』じゃん。いや、もちろん更に元ネタになってるのが、ヴァン・ヴォクト『宇宙船ビーグル号』であることは間違いないのだが、恐らく日本において、この「宇宙探索」という科学的意識で書かれた小説は、本作が最初期のものではなかろうか。でもこれ、続編の構想があったせいか、尻切れトンボで終わってんだよな。どうも地球を狙ってる遊星人か火星人がいるらしいってところでチョンなもんだから、隔靴掻痒って印象はどうしてもしちゃうのよ。 『宇宙の警鐘』では、地球に氷河期が訪れ、大洪水でアメリカも日本も氷の海の底に沈んでいく。人類を救うための「アルファ工事」計画を立案・実行に移したのが、これまたアイゼンドルフ博士であった。 作者は訴える。 「二十世紀の後半に地球狭しと発展した動物よ、汝の名を人間という。(中略)汝は宇宙の寵児ではない。己を省みて己の無知無能を知れ!」 いささかストレート過ぎる主張であるし、こういう激昂ぶりを見ていると、なんだか藤子・F・不二雄の「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」的な人であったのではないか、という気もしてくる。なんたって、どうして一連のSF作品を書いていったのか、その理由を氏は、エッセイの中で、戦後の人心の荒廃が見るに堪えなかったから、と漏らしているのである。 映画も含めて丘美作品に共通している思想は、「地球の危機」が単なる偶然や運命とか、そういうものではなく、人間の「奢り」に対する「警鐘」、あるいはもっとハッキリと「天罰」的なものとして認識されているということだ。 だから、人間が自らの文明を盲信し、かえって地球を滅亡に陥れるような愚を犯そうとするなら、何度でも宇宙人や宇宙怪獣は攻めて来るし、妖星は降ってくるし、天変地異は起きるのである。ミステリアンの次にナタール人が来ちゃうのはそのためね。 ……東宝特撮映画が、『ゴジラの逆襲』で憤慨して原作者を降りちゃった香山滋の次に、丘美丈二郎に原作の白羽の矢を立てたのって、分る気がするなあ。なんぼでも同じもの書いてくれるもの。
あ、エラそうにいろいろ書いてるけど、丘美作品で私が読んでるの、『鉛の小函』だけですんで。あとの内容は栗本薫の『丘美丈二郎論』を参考にしました。読もうったって、単行本になってるの数編しかないし。『宝石』のバックナンバー探すしか手がないんですよ。
2002年02月19日(火) さだまさしファンだったことが恥ずかしくて言い出せないやつ多いと思うぞ。……私もだ/『シックス・ボルト』(神野オキナ) 2001年02月19日(月) 語源の楽しみ/ミステリチャンネル『ポワロと私』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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