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無責任賛歌
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16日の日記の続き。 で、ここから17日の日記。 またもや咳が止まらなくなって、仕事を休む。 先日、しげとケンカしたのが確実にカラダに影響しているのだ。こういうことを書くと、しげはすぐに「オレのこと、嫌い?」なんて言って泣くのだが、誰もそんなことは言っておらん。そんなガキみたいな甘ったれをしないでいてくれればいいだけなのになあ。 職場に電話をするのもツライが、上司もいい加減で愛想をつかしているだろうなあ。ホンネではクビを切りたいんだろうけれど、診断書も出しているので、どうにもできないんじゃないか……なんてヒネた考え方に陥ってるのも鬱な証拠だ。 そんな私の気分も知らず、しげは私が休むんで「今日はいちんち一緒やね!」と喜んでいる。と言ったかと思うと、横になって朝寝し始めた。……さっきまで熟睡しとったろうが、おまえは。 で、昼ごろトイレに起きてきたら、また「昼寝」を始めるのである。 部屋にはしげのイビキと、私の咳が谺している。 なんか凄く殺伐とした気分になってるんですけど、どうしたらいいんですか。 少しウトウトとして落ちかけていると、突然のドアチャイム。 申し込んでおいた舞台『黒蜥蜴』のチケットが来ていたのだ。しげは一旦寝てしまうと、どんなにベルが鳴っても起きてきやしないから、もし私が家にいなければ、郵便局に再配達してもらうように頼まなければいけないところだった。 休んでてよかったことはこれだけ。……かえって鬱が募る。 ああ、なんだかここ数年でも一番の鬱状態に陥りそうだぞ。 長山靖生『偽史冒険世界 カルト本の百年』(筑摩書房・1890円)。 ずっと前に買ってたけど、読み切れないまま本の山に紛れこんでいたのをようやく見つけて完読。こういう本を読むと、歴史は本当に「物語」なんだなあ、と実感するね。 いしかわじゅんの『約束の地』で、村田春夫が「私はキリストだった!」と言って「皆の衆音頭」を踊るギャグには大いに笑わされたものだったが、「キリストもモーゼも日本で死んだ」とかいう「トンデモ学説」も、こういう形で昇華されるのが一番「健全」なのかもな、と今にして思う。 現代でも、新興宗教団体などは、新たな「啓示」とやらを受けて、数多くの偽史・架空史を作り続けている。『古事記』『日本書紀』もまた「偽史」と解釈すれば、歴史をでっち上げたがるのは、人間の普遍的な行為なのかもしれないとも思う。 しかし本書は明治・大正期に視点を絞って、この時期に集中して偽史が書かれてきた理由を探っていく。これが実に面白い。 人が自分の求める理想の歴史を持ちたがる心理自体は普遍的だとしても、「なぜその時期に」と考えることは、その「時代の意識」をとらえていくのに有効な手段だろう。真実は決して一つではなく、歴史は常に不確定かつあやふやなものだが、様々な「真実」が生まれていく「理由」は実在する。そういう視点のない「歴史観」は、どんなに真実めいて聞こえても全てクズだ。 例えば例の戦争が「侵略か侵略でないか」なんて論争くらい不毛なものはない。どっちも正しいし、どっちも間違ってるに決まってるじゃん。歴史の真実なんてものを一つに定めたがるから争いも起こる。人がみな一人一人違うって個性を認めるんなら、歴史観もバラバラってこと、認めようよ。どっちの人もさ。 「ジンギスカンは果たして源義経であったか?」。この異説を最初に私が知ったのは、高木彬光の『成吉母汗の秘密』を中学生の時に読んだときだったが、まあ全面的に信用しないにしても(何たって、その証拠と言うのが、あの「天城山心中」が義経と静御前の生まれ変わりによるものってんだから、信じようもなかった)、「そうだったら面白いな」とは思った。 微かではあるが、その「面白い」と感じた事実は、ノンポリなつもりな私にも「日本ナショナリズム」の芽があることを示唆している。誰しも自国が「強い国」「誇れる国」であろうと望む気持ちはあるのだ。 「侵略」「非侵略」の双方とも、「日本が誇れる国であってほしい」という願望が意識の根底にある点では共通しているので、結局、あの論争はどっちも自分の解釈に基づいたナショナリズムのぶつけ合いでしかない。 ただ、明治期・大正期に「偽史」が続々と作られていったのには、より切実な「事情」があった。長山氏は、それが大陸進出・南進政策を正当化するための根拠としてあった、と指摘し、その根拠を一つ一つを確認していく。これが実に明快で、心理的にすんなりと納得させられるのだ。 もちろん、「それはどうかな?」と首を傾げる部分が全くないわけではない。「明治以降の日本は、欧米列強を模倣する過程で、その侵略主義をも真似ながら、しかし明確な「差別の根拠」を持っていなかった」とするのはどうか。庶民はいざ知らず、「日出ずる国日本」としての他国に対する優越意識は、明らかに貴族・武士たちにはあったはずだが。だから蒙古・中国・朝鮮の侵略を受けた博多には、アチラを「野蛮人」と見なす意識がずっとあったんだってば。まあ、白人の黄色人種に対する差別意識に比べれば薄かったろうとは思うけどね。 そういう小さなキズはあるが、当時の日本人たちが「侵略」という意識ではなく、「回帰」という意識で大陸や南を目指していったことは実証できていると思う。 右がかってても左でも、歴史書を読む前に、まずこの「偽史」の歴史を辿ってみることをオススメする。 マンガ、藤島康介『ああっ女神さまっ』25巻(講談社/アフタヌーンKC・460円)。 続けて読んじゃいるんだが、いったい何の話をやってるんだか。 いや別に話が分らないっていう意味じゃないのよ。魔族ヒルドとマーラーが、“天使喰い”を操って、ベルダンディー達、女神のパートナーである“天使”を食らって行く。第5の女神・「戦闘部」のリンドは“天使喰い”の所在を懸命に探すが……。 って「外形」は分るんだが、もともと「心根は清らかだけれど女の子に持てない男の子のところにステキな女神様がやってきちゃったよ〜ん」って他愛ないラブコメだったものが、途中から「愛の絆ってなに?」みたいなモチーフ持ちこんでちょっと感動的な感じになってたのが、何だか天使と悪魔の戦いがどうのって展開になって……でもその「魔族」ヒルドは、「女神」ウルドのかあちゃんで……ストーリー、単に迷走してるだけじゃないのか? 長期連載の悪癖なんだろうけれど、いったいこのエピソードがどこに向かってるのか、何だかピンと来ないんだわ。 藤島さん、最近どんどん絵の描き分けができなくなってきたから、読みにくくもなってるしなあ。本来、私は、ストイックだけれども不器用なリンドみたいなキャラにはハマッて然るべきなんである(私がかわいい女の子なら誰にでも萌えると思ったら大間違いである)。つまり『オトナ帝国』のチャコみたいなタイプね。でもなんか「絵」が違うんだよなあ。いや、ほかのキャラもそうなんだけれど、「表情」がどんどん消えていってさ、ただの「決め絵」になってきてるんだねえ。これ、「いい絵を描こう」と努力する人がかえって「型」にはまっちゃったってことなんだよね。こうなるとどうにも感情移入ができない。この「壁」を乗り越えないと、藤島さん、そろそろ今後が苦しくなってくるんじゃないかと思うけどなあ。 っつーかさ、もう少し面白いもの描いてくれないと、しげがこの手のマンガを一番嫌うんだよ。「面白さが中途半端だ」ってさ。 マンガ、高橋葉介『ドクター・フォービア 恐怖症博士』(秋田書店/少年チャンピオンコミックス・410円)。 ああ、たった1巻で終わっちゃったなあ。確かにそんなに面白い連載じゃなかったけれど、もしもこの先『少年チャンピオン』からお呼びがかからなくなっちゃうとしたら悲しい。できればもう1回くらい高橋さんにチャンスをあげてほしいものだが。 様々な「恐怖症」患者を、いかにもアヤシゲなドクター・フォービア(とその助手・千悟)が「治療」していくという設定はいいのだが、ページの短さもあってか、オチが殆ど一発アイデアで、当たり外れの振幅が大きい。 第1話の「“月”恐怖症」など、タイトルだけでオチが読めてしまう人も多いのではないか。 いや、オチが読めること自体は必ずしも欠陥とは言えない。1話のオチは、本来、そこから「恐怖症」が発生する物語にしなければならないのじゃないか、と思える点で、「安易」な印象を脱ぐいされないのである。 それに比べると、17話の「雪恐怖症」は、恐怖の先にある物がなんであるかを暗示していて面白い。 空に浮かぶ雪の精。青年には彼女の姿が見える。雪を見るたびなぜか恐怖を覚える彼は、自分の記憶に封印された部分があることに気づく。しかし雪の精は青年に語らう。「それは怖いことなの。思い出さなくていいことなのよ」。しかし青年は衝動に突き動かされてドクター・フォービアを訪ねる。そして、渡された「記憶の小箱」を空けると……。 これもオチが読めないこともないのだが、第1話と違って安易さは感じられない。夢の終わりが一つの恐怖であることを我々は無意識のうちに感じとっているからかもしれない。 まあ、要するに「理に勝ち過ぎてる」話は面白くないけど、「情に訴える」話は感動するって、ごく当たり前の結論なんだけどね。 いとうせいこう・岡崎京子『ハプニングみたい』(講談社/KCデラックス・1000円)。 「岡崎京子」の名前に驚いて、岡崎さん、元気になったのかと思ったら、旧版の新装版であった。 岡崎京子がまず絵を一枚描く。ただし、描きながらコピーを取っていく。一枚の絵が完成していくまで、制作途中の絵が十数枚生まれる。それに、いとうせいこうが物語ともエッセイとも感想ともつかない文章をつけていく。 試みは面白い。面白いんだけれど、残念ながらできあがった作品は今一つ。理由は簡単で、いとうさんの文章が岡崎さんの絵に追従した形にしかなっていないからだ。それが証拠に、文章を無視して岡崎さんの絵だけを見ていくと、これがとてつもなく面白いのである。 この絵はいったいどんな完成形を見せるのか? それを想像しながらページをめくっていく楽しさよ。想像力が貧困で、いとうさんの書く文章に一読三嘆してしまうような人ならば面白く読めるのかもしれないが、たいていの読者にはいとうさんの文章は陳腐にしか映るまい。それはいとうさんに才能がないということではなく、開放された個人の想像力には、生半可な才は到底かなわないからだ。 山崎正和の文じゃないけどさ、いとうさんのやったことは「ミロのビーナスに腕をくっつけてみる」行為でしかないのだ。そりゃムチャってもんでしょ。 白い画面に黒い点が一つ。 次のページでは女の子が現われる。 黒い点からは何か動物のものらしき足跡が現われる。 あちらにも。 こちらにも。 黒い点は穴なのか? そしてまた、女の子の向こう側にも黒い穴が……。 この絵の1ページ目に、いとうさんがつけた文章は、こうである。 「(白い画面について)このあたりは幸福。何の疑問もない。(中略) (黒い点について)黒いしみ? そんなことはわかっている。だがなんのだってこと。(中略)ミクロなレンズで見たホクロ! つまり皮膚のどアップで……。……違うな、きっと。あるいはまさか? 印刷ミス!?」 まあ、これで面白いと思う人はそれはそれでいいんですが。(2003.3.16) 2002年02月17日(日) ヘンなメール/『百鬼夜行抄』9巻(今市子)/『空前絶後のオタク座談会�◆.淵�ヨシ』(岡田斗司夫・山本弘)ほか
☆劇団メンバー日記リンク☆ 藤原敬之(ふじわら・けいし) |