無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年02月02日(日) 閃光の意味は/アニメ『明日のナージャ』第1回/『グーグーだって猫である』2巻(大島弓子)

 朝、眼を覚ますと8時半。
 わあ、危ない。『明日のナージャ』第1回を見逃すところだった。
 ホントは体力が持ってりゃ7時からしっかり起きて戦隊もライダーも見たいんだけれど、そうすると昼にはバテてまた寝てしまうのである。
 『どれみ』も見たり見なかったり、どちらかと言えば五回に一回くらいしか見ちゃいないのだが、たまに見た回に『未来さん』の話なんかがあるから侮れない。私ゃもちっと体力が欲しいよ。
 さて、『ナージャ』第1話「ナージャ、運命の扉!!」であるが、なんだか既成の少女小説やマンガ・アニメの寄せ集めって感じで、もうこのトシになってしまうと面白味を感じること自体、難しい。
 ちょっと思い浮かぶだけでも『キャンディ・キャンディ』『あしながおじさん』『家なき子』『小公子』『小公女』『黒いチューリップ』あたりを参考にしたんじゃないかって展開で、キャラクターデザイン自体は今風なのに、なんだか古臭さを感じてしまう。元祖は『レ・ミゼラブル』あたりになるのかな。
 これでまたやっぱリ魔女っ子ものになっちゃったら少女ものジャンルを全て制覇しそうだが、さすがにそうはなるまい(^_^;)。
 でも、どこかで見たような物語であっても、若い世代には若い世代の思い出の作品ってのは必要になるのである。永遠に『キャンディ・キャンディ』をリメイクしていくってわけにもいかないからね。
 でも、「孤児院」で「まだ見ぬ母」に「指輪の秘密」に「謎の美少年」に……って、イマドキの若い子に受けるのかなあ?
 それはそうと、この話の舞台ってイギリスってことになってるけど、「ナージャ」って名前、イギリス人なのか? どうもロシアとか東ヨーロッパに多い名前らしいんだけど(「希望」という意味だとか)。


 で、実は触れようか触れまいかちょっと迷ったんだけど、この日記には思ったことはできるだけ書いておくことにしてるんで、「例の出来事」についても、一応は書いておくことにする。

 『サンデーモーニング』にチャンネルを合わせると、青空に白い軌跡の流れる、ちょっと見、美しい映像が流れている。
 初めはそれがなんだかよく解らなかった。
 でもすぐに上ずり加減のキャスターのナレーションが流れる。煽情的なテロップがかぶる。
 スペースシャトル・コロンビア号の崩壊の映像であった。
 実際の事故は、NASAの発表によれば1日午前9時(日本時間午後11時)ごろに起こったということである。コロンビアは高度6万メートル上空を時速2万キロで飛行中であり、着陸予定時刻のわずか15分前に、テキサス州上空で交信が途絶えた。
 その後、コロンビアはダラスの南約160キロ上空で空中分解した。生存者はいない。乗組員七人の中には、イスラエル人が一人、初めて乗り込んでいたという。

 映像を見ながら思ったことが二つある。

 一つは交信の途絶から実際の爆発までのタイムラグ、およそ7、8分の間に乗組員の人々は何を思っただろうか、ということだ。
 果たして、崩壊は一気に押し寄せたものなのだろうか。もしそうならば、事故自体は悲惨であっても、乗組員の苦痛は一瞬であったかもしれない、と思う。
 しかし、計器の不調、温度の上昇など、“眼に見える形で”彼らに死が迫っていったとすれば……。
 人は、絶対の死を前に、何を思うものなのだろうか。
 祈りか、怒りか、呪いか、ただの叫びか。死の瞬間に人は自らの真実を晒すのか、それとも偽ったままで終わるのか。
 おそらく、新聞やテレビなどのメディアやヒョーロンカのみなさま方は、事故原因の究明だの、そういうところにばかり「謎」を求めるのだろうが、実はそんなものは謎でもなんでもない。たとえその真相が判明しなくても、それが物理的な因果律の範疇に属する問題である以上は、原因と結果はちゃんと存在しているからである。
 けれど、人の心に答えは求められない。
 彼らが最後の瞬間に何を思っていたか、という疑問に答えを出すことなど、どんなに想像を逞しくしたところで不可能だろう。それはとりもなおさず、我々自身が全くと言っていいほど自分が何者かを知らず、自らの存在自体を持て余しているというやりきれない現実がそこにあることを意味している。
 我々には、彼らの死がどんな意味を持つのか、永遠にわからない。そしてそれは我々自身が生きる意味を見失っていることと同義なのである。
 今回の事故について、私が“直接的な”興味を持つのは、実はその一点だけである。

 もう一つは、これからしばらく、この事故に関しての世間の反応がどうなるか、それが一気に私のアタマの中に経巡ってしまい、暗澹たる気分になってしまったことである。
 今、書いた通り、今回の事故について我々は本来何も語れはしないのだ(もちろんそれはこういった「人の死」にからむ事件では全てそうなのだが)。
 しかし、「解釈」が世間に横行することは眼に見えている。
 まず、宇宙開発の是非を問う陳腐な言質が飛び交うだろうことも想像に固くない。そこには俗悪なキレイゴトと、定番な揶揄・皮肉が錯綜し、結局は「何を語ってるんだか分らない」混乱が引き起こされるだけであろう。
 そして時が経てば全てがウヤムヤになる。
 いったいこの事故は「何」なのか? その本質が問われることは決してあるまい。と言うより、誰も、その「本質」については触れたくはないのだ。
 ……まあ、私もそのことをあまりズバリと言っちゃって不必要にテキを増やしたくもないので(今更)、ちょっと婉曲的な指摘だけをいくつかしておこう。

 今回の事故に関して、テレビはさかんにブッシュ大統領の事故報告の演説を流した。私はこのニュースを「遅れて」見たので、サワリの部分しか見ることはできなかったが、新聞各紙に掲載されていた要旨と見比べてみると、ある部分が意図的に欠落させられていることがわかる。
 演説のほぼ最後の部分、「乗組員は無事地上に帰り着くことは出来ませんでしたが、神の下へ召されたことでしょう」である。ナマで報道されていたときには当然この部分も放送されていたとは思うが、午後の報道ではどの局も軒並みこの部分はカットされていたのだ。
 ……偶然ですかね、これ。
 これは敬虔なクリスチャンであるらしいブッシュ大統領ならば当然口にしたセリフであろう。別段「不自然」なセリフではない。
 しかし、イスラム圏ならばカットされるかもしれない(逆にブッシュ批判を煽るために放送するかも)この部分が、なぜ、「日本で」カットされてしまうのか。ネットをいくつか散策してみたけど、この件に関して、言及してる人って、全然いないのである。
 それとも私が見てないところでは結構、この部分は放送されてたのかもしれない。しかし、そうでなかったなら、この部分を削除した「意志」はいったい誰のものなのか。この「発言カット」の件について何一つ問題視する向きがないという事実に、日本人の総体的な「意識」が関わってるんじゃないかな、とどうしても思ってしまうんである。

 SF作家の野尻抱介さんのホームページの掲示板で、このブッシュ大統領の発言に対して、「そんな事をする“神”は悪意に満ちた存在に違いない」と噛みついている人がいた。山本弘さんの掲示板でも結構トンチンカンな発言をされてる人なんで、またまた「あ〜あ、やっちゃったよ」という感じである。
 もしかして『魔王ダンテ』か『デビルマン』でも読んでこういう発想を持つに至ったのか(~_~;)。もちろん個々人がどんな思想を持とうが、そりゃ自由なんだけれど、「日常的に」こういうことを口にしていたとしたら、ちょっと融通が効かなそうというか、やや近寄りがたいところがあるように思う。
 思想の自由は自分ばかりでなく、相手にだって保障されるべきものだ。しかしこの人の場合、自分の発言が、信仰心の厚い人に対してどう受けとめられるか、ということについて、思いが至っていない。意見を語るな、ということではなくて、「人んちの掲示板に、相手が何を考えているかを忖度せずに乱入するのは荒らしだ」ということなんだけど、そういう発想が基本的になさそうなのである。
 でも、こういう「無自覚さ」はこの人に限ったことではない。
 山本弘さんとこの掲示板を初めとして、いくつかの掲示板でこの事故の話題をしているところを回ってみたが、予想通り、「七人の宇宙飛行士の方々のご冥福をお祈り申し上げます」のオンパレードである。
 この「おかしさ」に気づいてない日本人が圧倒的に多いってのはなんなんだろうね?
 何が言いたいかっていうと、「クリスチャン」に「冥福」は違うだろうってことなんですよ。「神の御許」は「冥土」か?(-_-;)。
 単純ミスだし、一般的に「死を悼む」という意味で使ってるだけだから、それくらい許してあげなよ、という言い分もあろうが、それがただの言い訳に過ぎないことも事実だ。我々日本人の宗教に関する感覚はあまりにも鈍い。もしもクリスチャンが「許せない」って言い出したら、これ、充分アウトな発言なのだ(まあ、日本にお住まいのクリスチャンのみなさま方は博愛主義者だから文句はつけますまいが)。
 こういう当たり前の指摘が全くできなくなっている状況って、結局は日本人の「意識」ってものの正体がどんなものかってことを象徴してるんである。

 まあね〜、宇宙マニアな人を除いたらさ、この件に関してあんまり熱く語ったってしょうがないと思うよ。
 報道でもやたら言ってたけどさ、これはどうやら「アメリカの威信の失墜」って問題らしいから。宇宙開発がどうの、人類の未来がどうのって話じゃないそうですから。


 唐沢俊一さんの裏モノ日記で、ちょいと気になる記事を見つけた。と言ってもたいしたことじゃないんで、「どんなツッコミする気なのか」とか期待しないように。
 1月31日の冒頭に、『三省堂国語辞典』を読んだときの、「“尖む”と書いて“こすむ”と読む語がある、などというのも初めて知った。碁をやる人には常識なのだろうが、前に打った自分の石からななめの方角に打つこと、なのだそうである。今や広辞苑にも記載されていない」と書いてあるくだりである。
 もちろん、碁をやってなくても今やジャンプ読者にはこの語は「常識」になっているだろう。もちろん『ヒカルの碁』のヒットのためである。
 ああ、唐沢さんは『ヒカルの碁』を読んでいないんだな、とこれで気づいたのだが、別に「なんであんな面白いマンガを唐沢さんともあろうものが読んでないんだ!」と怒りたいわけではない(どんなヒット作だって読む読まないは本人の自由であるし、唐沢さんの批評対象のフィールドと、『ヒカ碁』がかけ離れていることも当然承知している)。
 昨日もツラツラと考えていた「オタクの浸透と拡散」のことをやはり思い返してしまった、ということなのである。

 「このマンガを読んでなくて、マンガが語れるか」というものがかつてはあった。いや、マンガに限らず、小説だって映画だって、そういうものは「あった」のである。しかし、年月が膨大な作品群を生み出していく過程で、少しは見るべきものとそうでないものとのセレクションが行われていったかというと、必ずしもそうはなっていないのである。実際にはどのジャンルにおいても、学ぶべき「基礎教養」が増殖するばかりになっているのが現実である。
 好き嫌いは別として、マンガ史において、手塚治虫や梶原一騎を読まないでモノが語れはしないだろう、ということは誰しも見当がつく。しかし、彼らが亡くなって随分時間が経った。単行本の復刊はあるものの、雑誌連載は当然ない。連載されているマンガの単行本しか読まない買わない、という若い人はもうゴマンといるのだ。
 マンガを文化としてとらえようと思うなら、作品だけでなく、その読者層の特徴までも含めて見て行かねばならない。そうなると、「『ワンピース』や『テニプリ』しか読んでいない人々」をも「マンガファン」と呼ばねばならなくなる。そんなのは私らの世代ならば即座に「てめーら、それだけがマンガなんて思うなよ、マンガの読み方一つわかってねーじゃん、もっとほかのマンガ読め」と怒鳴りつけたくなるのだが、では、彼らに我々の世代が読んできたマンガを全て「基礎教養」として読め、と強制することができるのか? と自問したら、そりゃ無理だよってことになるのも分っているのである。
 私だって、面白ければ『ジャンプ』だって隅から隅まで読むだろう。昔は『ジャンプ』『マガジン』『サンデー』『チャンピオン』『キング』、それ以外にも結構な数の雑誌を立ち読みと貸し借りを駆使して本当に全部読んでいたのだ。しかし、マンガ文化がここまで爛熟してしまうと、その全てを追いかける情熱自体が自分の中から消えていってしまう。私だって、マトモに「若者文化」を語ろうと思ったら『テニプリ』も『NARUTO』も読まなきゃならないんだろうが、如何せん、全く食指が動かないのである。
 もちろん、食わず嫌いというわけではなくて、チラッとは見てみた上で先を読んでみようかどうか判断するわけだが、さて、そうしてみても『テニプリ』のどこがどう面白いんだか、サッパリわからないのである。物語が破綻してるとか、そういうんじゃなくて、ただただヘタで陳腐なだけにしか私には見えないんだが。
 こうなると、私にも「マンガは語れない」。
 けれどそうなると、そもそもこの膨大な作品群がひしめいていて、「基礎教養」すら身につけられない状況の中、果たして批評自体が成立する余地があるのか、ということになってしまう。
 もちろんその道を模索しないことには、「語る」こと自体が意味をなさなくなってしまうのだが、なんかねー、最近はねー、私のやってることがことごとく空回りしてる気がしちゃってねー。だって、「読みたくない」人間にとっては、手塚治虫だって、藤子不二雄だって、赤塚不二夫も石森章太郎も永井豪もエトセトラエトセトラ、「存在しない」のと同じなんだから。
 ……なんだかこれ以上考えていっても、同じことを繰り返しそうな予感があるのでこのへんでやめておこう。疑問は残るばかりだけど。


 晩飯(と言ってもしげが仕事から帰ってきてだから深夜なのだが)はジョイフル。
 知り合いの女の子が働いていたのでびっくりしたが、「いろいろお世話になりまして」とか言われたんでなおびっくりした。何をどう世話したのか、きれいサッパリ忘れていたからである。
 あとで「ああ、あれのことか」と気づいたが、別に艶っぽい話ではないので、読者諸賢はあまりヘンな期待はしないように。
 どうも私は自分でも知らないうちにいいことをしているらしい。困ったな、できるだけ人に感謝されない人間になろうと努力しているのだが。でないとすぐしげが嫉妬するし。
 しかし、自分の夫が世間のツマハジキモノになって欲しいと願ってる妻ってのも、人間としてどうかと思うのだが。

 キムチ定食を食いながら、しげから今日の練習の様子を聞く。
 円谷君が演出を降りる話は先日聞いてはいたが、結構ひと悶着があったようである。
 円谷君、これまでも演出プランを何も考えずに練習場に来たり、役者が質問をしても全く返事ができずに立往生したりと、ホントにただのウドの大木だったらしい。本人はそれでもめいっぱいだったのかもしれないが、メンバーは「いい加減」としか見ていなかった。
 「学校の方が忙しくなるから」という円谷君の言い訳に鴉丸嬢がまず噛みついたとのこと。「そんなの最初からわかってたでことじゃない。なんで演出引き受けたの?」。
 鴉丸嬢のこの疑問、というより糾弾は至極マットウなのだが、マットウなだけに相手に反駁の余地を全く残さない。ついには円谷君、泣き出してしまったそうな。
 泣くようじゃ同情はできんなあ(-_-;)。
 円谷君も、知り合いの演劇関係の人に話を聞いたりして、自分なリに努力はしていたと主張したそうだが、それが現場に全く生かされてないのでは、口にするだけ卑怯な言い訳にしかならない。みんな怒ってたろうなあ(ー∇ー;)。
 自分の言葉がどれだけ相手の神経を逆撫でしているか、最後まで気がつかなかったというのはある意味シアワセな人なんだが、一緒に何かを作っていくにはちょっと向かない。
 結局、演出は鈴邑君に決まったとのこと。さて、円谷君はあと何をしたいのだろうか。


 マンガ、大島弓子『グーグーだって猫である』2巻(角川書店・1155円)。
 大島さんの猫マンガを『綿の国星』の繋がりで読んでいた読者は結構いるんじゃないかと思うが、最近の大島さんは猫を人間の姿では描かない。サバが最後の人間型猫だったんじゃないかと思うが、今巻に登場するタマもやはり普通の猫である。
 私はマンガの中の猫や犬にはほとんど感情移入をしないので、猫がどんなにかわいいかを描かれても「それって作者のマスターベーションでしょ?」としか思わない。猫を猫以外のものに描くことも実は自慰行為なのだが、ある意味作者がそこまでイッちゃってれば、読者はもう両手をあげてそのファンタジーを受け入れるしかない。サバを「モノホンは猫なんだよな」と思いながら見ていた読者がいたろうか?
 いや、相変わらず大島さんのエッセイマンガは面白いのだ。大島さんのガン治療の話ですら、ユーモラスで深刻さのカケラもなく面白い。
 けれど、やはり何かが違う。
 猫が人間の姿で描かれていたことには、「そうとしか描けない」切実さがあった。単に気を衒っただけとは誰も受け取らなかったからこそ、『綿の国星』は、『サヴァビアン』は支持されたのだ。
 大島さんにとって、猫はただの猫になってしまったのだろうか。

2002年02月02日(土) ファンタジーの地平に/映画『ハリー・ポッターと賢者の石』/『バイリンガル版 ゲゲゲの鬼太郎』(水木しげる)
2001年02月02日(金) ゆっくり休もう/舞台『人間風車』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)