終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2008年01月08日(火)

 脱ぎ捨てられた鎧兜は水盤の脇に無造作に積まれ、王女は薄い衣装に身を包んだばかりで巨きな水盤のへりに長々と寝そべっていた。近づいてもこちらを振り返りもしないその様子に、アル・シムーンはいぶかしんで尋ねた。
「姫よ、どうなされた?」
 ジンニーアはその問いには答えぬまま、右手をのばして澄んだ水を汲み、すぐまたその滴を獅子の水盤にこぼした。指の間から流れ落ちる水に夕日の最後の名残が斜めに輝き、その光は暮れ方の中庭を明るませた。長い沈黙の後にジンニーアは体を起こし、肩越し、アル・シムーンを見た。
「わたしの声は母上には聞こえぬ。よしんば聞こえたとして、この世の外の霧に包まれておわす母上は来てはくださらぬ。そうじゃ、母上はジンニーアのところへは来てはくださらぬ。これほど呼んでおるのに」
 アル・シムーンはことここに至ってようやく気付いた。傾きかけた帝国をほとんど独力で立て直し、仇敵たり宿痾たるヴォードワンの王国をまさに海に掃き落とそうとしているこの傑出した王女、ほとんど神のごとく軍勢に君臨する将軍の、その業績とはまさにこの言葉であった。母を恋い慕う幼い娘の、その母を求める声であったのだ。理解は雷鳴のように閃きアル・シムーンを打ちのめした。愕然としてアル・シムーンは己が主上を見た。
「母上は来てはくださらぬ。仇をお討ちして差し上げても、父上さまにお願いして皇后の位を追悼して頂いても、母上はジンニーアのもとに来ては下さらぬ。母上は死んでしまわれたのだもの、来れぬが道理」
 美貌の王女はすでに忠実な配下のいることを忘れたように、長い黄金の髪を垂らし、水面をのぞきこんで言葉をぽつぽつと落してゆく。アル・シムーンはなにかしらぞっとするものを背筋に覚えて、押し黙った。
「良い、わたしは試してみただけじゃ。仇をお討ちして差し上げたら? 高い位を頂いたら? わたしは試してみた。そして、駄目だとわかった。そうじゃ、母上は戻られぬ。いかようにしても戻られぬ。わたしが望み、母上が望まれても戻られぬ。ではわたしは言うだけじゃ。母上の死に責めのあるものはすべて死ねばよい。帝国は滅べばよい、その民は死ねばよい、軍勢は毀たれればよい、良きも悪しきも灰となるがよい。なべてのものは、母上の死を見過ごしたゆえに滅べばよい。この手にかかって滅べばよい」
 ジンニーアは顔を上げた。蒼穹よりなお青い双眸の一瞥にあっても、アル・シムーンは身動きもならなかった。王女は声を上げて笑った。
「本気にしたか、愚かものよ」
 違う、とアル・シムーンは答えたかったが、声のひとつも出はしなかった。舌は乾いて上あごにはりつき、恐るべき知識は世界に知らされるのを拒んだ。王女はこのうえなく本気だと、帝国はこれより滅ぶのだと、かれはこのとき知ったのだ。


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