終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2008年01月05日(土)

 ジンニーアは、わたしから少し離れた岬に立っていた。それはほとんど垂直に海に落ち込んだ断崖の端で、恐ろしいほどの空間を隔てて波頭が灰色の岩々にたたきつけるのが見えた。海はその日青く、暗く、波は高かった。
 わたしは彼女の名を呼んだが、海からの強い風が吹き攫って届かなかったのだろう。ジンニーアはただうつむいて、足の下の海を見下ろしていた。あたりは真昼で空気も澄んでいたが、彼女の横顔は乱れもつれた長い金髪に隠されてよくは見えなかった。彼女のものである戦乱の日々には属さぬ海を見据えて何を思っているのだろうかと私は訝った。
 そのときだった。ジンニーアはふいに顔を上げ、その両手を上げた。それは祈りの仕草のようにも許しを乞うようにも見えた。どちらであったのかは知られない。次の瞬間に彼女の足元から岩壁が崩れ落ちた。それは大規模な崩壊で、ほとんど岬そのものが瞬時にして崩れ落ちたのだった。ジンニーアの両手が陽の光を浴びて白く輝き、つかのま崩れた地を知らぬ気に、ほっそりとした肢体が宙にあった。彼女がそのまま飛び去ったとしても驚かなかっただろう。だが瞬きひとつの間をおいて、彼女もまた星のように落ちていった。細い叫びのひとつも残しはしなかった。
 私の傍らで、アル・シムーンが言った。
「大地もあれを支えられずに崩れ落ちた。あれの流した血はあまりに多すぎた。あれのなした悪はあまりに重すぎた」
 そして泣いた。わたしは黙って泡立ち逆巻く海を見下ろしていた。それが私の知るジンニーアの最期だった。


 アル・シムーンは頭を動かさず、ただ低い声で尋ねた。
「慈悲はないのか?」
 ジンニーアは答えなかった。長いあいだ答えなかった。灰色の石からなる城壁の前に一列に並んだ男たちが片端から首を落とされ、その血しぶきがあがり、落ちた血がそれぞれに土に沁み入るまで、ジンニーアは答えなかった。そしてすべてが終わってしまうと、ゆっくりと振り返り、アル・シムーンを見据えた。
「わたしは戦いを知っておる。陣形と戦術を知っておる。進軍のときと敗走のとき、勝利と敗北、捕虜と処刑、死体を始末する焚きつけの蘆がらについても知っておる。だが、慈悲とな?」
 言葉は奇妙にゆっくりと、ひとつひとつ明瞭に発音された。言い終えるとジンニーアはしばらく黙り、それから歩きだした。
「石に問え」
 すれちがいざま言った、それが答えだった。黄金なす髪と蒼穹の瞳、世に類稀なる輝かしい美貌を備えた王女の、それが答えだった。


 砦の一部屋の中央に置かれた将棋板の上を夕暮れの光がよぎっていた。
「七つの主要な都と、これらに付随する砦をやろう」
 盤面の北側で、王ヴォードワンが言った。まだ若い王は瀬病に侵された顔を黒い布で覆っており、その声はくぐもっていた。
「それでは足りぬ」
 答えたのは南側に座すジンニーアで、進めた駒は黒の女王。
「沿岸の三つの港も渡そう。真珠のごとき町だ」
「それでも足りぬ」
「富み栄える街道のエリコと、騎士の砦もやろう」
 盤上の戦いは互角。あるいは王の優勢。だがその余の闘いはすでに決着がついていた。王ヴォードワンは敗者、敵たる帝国の王女ジンニーアは勝者。残っているのは王にとって分の悪すぎる駆け引きのみ。
「足りぬ」
 は、と王は笑いを漏らし、指の欠けた手で王手をかけた。
「もう余の手には何も残っておらぬ」
「あるではないか」
 ジンニーアは顔を上げた。薄い色の瞳は水のごとくに透き通り、王の顔の蔽いをも見通す気配であった。
「王都がある」
「それを失えば余の手には何も残らぬ」
「だがわたしは都が欲しい」
「われらに砂漠にさまよい出て、洞窟に住めと?」
「いいや、砂漠も洞窟もこちらにもらう」
 ジンニーアは答え、黒の王を転ばせた。盤の勝負は彼女の敗北。王ヴォードワンは覆われた布の下からジンニーアを見据えた。
「そもそもの最初から交渉の余地などなかったのだな?」
「わたしは最初に誓った。おまえの王国をこの地上から海に掃き落とすと」
 切り裂くようなまなざしは中空にはっしと打ち合った。火花の散るさまさえ見えるようだった。王女は言葉を続けた。
「おまえの王国を海に掃き落とすと。おまえの民を海に追い落とすと。そう、わたしは誓った。誓った以上はなさずばすまぬ」
 王ヴォードワンは床几から立ち上がった。病と運命を背負った王は、その重さに耐えんとするごとくのろのろと立ち、そしてジンニーアを見た。
「してみせるがいい。けしてそうはさせぬから」
 ジンニーアもまた立ち上がった。
「してみせるとも、友よ。だが、わたしにはそなたの首は落とせまいな。死をもたらすには病のほうが早かろう」
「それこそ余の嘆きだ、友よ。残してゆかねばならぬとは、我とわが王国を、滅びの運命のもとに残してゆかねばならぬとは!」
「だが運命とはそうしたものだ」
「まことに。だが今は別れを告げよう」
「再びは会うまい、行くがいい」
 そして王ヴォードワンは立ち去り、ジンニーアは残った。


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