- 2007年12月23日(日) 山田風太郎「人間臨終図巻」 引き続き。 人間臨終の阿鼻叫喚を集めたこの分厚い書籍の醍醐味は 結局、山田が直接に交流のあった同時代人の生の顔と声が 赤裸々に書きこまれていることに尽きる。 まあ、これに、山田自身の同時代観を加えてもいいが。 その意味で出色は横溝正史の項だ。 ここには山田がかれと交わした書簡や会話が引用され、 きわめて鮮やかにこの恐るべき伝奇作家の横顔がうかがえる。 ほんの一項ほどの内容には、ここばかり死の影は薄く ただ頬をかすめる風のように、ひとつの生が追憶されている。 しかし、なんともはや。 どんな推理小説だってこうはいくまい。 毎ページ、人が死ぬ。しかもその死のほとんどすべてが、 暗殺者の素早いナイフの一撃をきわめて慈悲深いと感ぜられるようなもの。 善悪問わぬ阿鼻叫喚の死の苦悶は、まったく救いがない。 しかもなおひとは死なねばならぬとは、と嘆きたくもなる。 生きるということが最後にこれほどの対価を必要とするのなら、 なるほどそれは、それ自体、すさまじい悪だとみなすほかない。 でなければ、生死にはなんら意味などないと。 さて、感銘をうけた最期の言葉をいくつか。 「阿呆だ、おれは」――スウィフト(「ガリバー旅行記」作者) 「おれはもうダメだ」――山岡荘八(「徳川家康」作者) 「ここで死のう、このあわれなそら豆を踏みにじるよりは」――ピタゴラス 「ノヴァ」――フォン・ブラウン(ロケット工学者) スウィフトの言葉がいい。 死にあたってこれより切実な自己認識があるだろうか? まさに死の側に立って同時代と歴史とを眺めたときに、 阿呆でない人間があるだろうか? もちろん自戒も含めて。 -
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