- 2007年12月22日(土) 山田風太郎「人間臨終図巻」 を読んでいて、いろいろと面白かったのだが、 水戸光圀公が若年、「史記/伯夷列伝」を読んで大いに感動し、 「大日本史」を志したというのが なかなか面白かった。というのは私も大いに感動したクチなので。 史記/列伝のうち、冒頭におかれた伯夷という人物は誰か。 殷を滅ぼすべく兵を挙げた周・武王を不忠として制止したが聞かれず、 殷に替わった周の禄を食むことを望まずに山へ逃れて山草を食べていた。 しかしそのうち周の国の草を食べるのも嫌だといって餓死した。 まあ…アレだ。アレな人だ。 それはおいといて、この章を、太史公はこう結んでいる。 「天道、是か非か」…天の道は、正しいといえるのか、それとも否か。 「楚辞/天問」全文にひとしいほどの激烈なこの問いには 読むものをして慄然のとさせる力が満ちている。 ひとりの人間の全生涯を変えうる言葉だといってもいい。 もっと平たくいうと、この問いはこういうことになる。 「人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。 考えてごらん(中略)」 小さなセララバアドは少しびっくりしたようでしたが すぐ落ちついて答えました。 「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」 (中略) 「うん。そうだ。人はまことを求める。 真理を求める。ほんとうの道を求めるのだ。 人が道を求めないでいられないことはちょうど 鳥の飛ばないでいられないとおんなじだ。 おまえたちはよくおぼえなければいけない。 人は善を愛し道を求めないでいられない」 宮沢賢治「学者アラムハラドの見た着物」 ほんとうのいいこと。善とはなにか。また道とは。 問い、求め、探索せよ。それは疑い、訊ねるべきものだ。 こうしたほんとうの言葉だけが、いつも人間を突き動かしていく。 良いほうにかそうでない方にかは知らない。 -
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