終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2007年09月27日(木)

 早い調子の音色が、山の端に姿をあらわし始めたばかりの月の光の射す座敷に満ちていた。紫檀から削り出された三味線は、狂い立つばかり情に満ちながら、ときおり鋭い哀調が不意をついて落ちる。一曲おえて祐介が撥を置くと、その夜の客の老人は惜しそうに目を細めた。
「凄絶に弾きよったなァ。素人のわしでも、こう、首のあたりがゾッとしたわい」
「へえ、相済みません」
「馬鹿な、誉めとるんじゃないか。サ、こっち来なされ。酒でも飲め」
 祐介は三味線を傍らに置いて膝を進め、スと頭を下げて両手で老人の差し出す杯を受け取った。清水のように喉を滑り落ちていく酒を一口二口含み、三口目で干して、かえって杯を差し出した。
「どうぞ、ご隠居」
「ウン」
 播磨屋という大店の看板を息子に譲り、悠々自適に悪所を楽しんでいるという老人は、染みの浮き出た手で朱塗りの杯を受け取り、酒の注がれるのをじっと見ながら言った。
「今夜はなんぞ、気にかかることでもあるのかい」
 さら、と酒が溢れた。老人は袂の汚れるのも気にせぬよう、視線を上げた。祐介はツと目を伏せ、
「…ごめんなすって。そんなふうに見えやすかい」
 懐紙でこぼれた滴を拭いながら、弱々しく呟いた。
「見えるもなにも、おめェさん、てっきりいつものようじゃねェ」
「へェ」
 ずずっと老人が皺の浮いた唇で酒を吸うあいだしばらくの間があって、ふいに。
「待ち人があったンか」
「いや、そんな、ご隠居…」
「ねェってのかい?」
 祐介はいささか言葉に詰まり、ふとうつむいて笑い声を落とした。
「かなわねェなあ、ご隠居にゃァ」
「別に当て推量じゃァねえのさ」
「そりゃァまた…」
 言葉を遮るように老人は杯を置いて、キセルを指さした。丸めた煙草をつめて渡せば、ほどなくプカァりと紫煙が上がる。じらすようにのんびりと二三服もやって、老人はようやく祐介を見た。
「俺っちがおめェを名指してよ、さァ上に上がろうかいって階段に足かけたときによ、若ェお侍が飛び込んできたのさ。まァ、三十に少し足りねェくらいの。ありゃそこそこ身分のある直参だろうなァ、蝶の紋の羽織を着てさっしゃった。そんで…まァ、後は知らねェ。怒鳴り込んで来ねェとこ見ると、まァ、追い返されたかどうかしたんだろうねェ」
 老人はなおも二三度煙を吐いて、やがて煙管を傍らに置いて、楽しむようにゆっくりと言った。
「さて、この老骨の相手をしてもらおうかィ。手ェ抜いちゃァいけねえよ?」
「…へェ」

 練り絹の布団のはたで、祐介は帯を解く。この老人を相手にするときはいつもこうだ。帯を解き、着物下帯と脱いで身を整えるまで、煙管をくわえて、座敷でのんびりと待っている。
「……ご隠居」
「おゥ」
 声をかけると、煙管と紫煙をともにして、老人が襖を開け、戸口に立って、皺に埋もれかけたような目を細めて、裸体を頭の上からつま先まで見渡した。こうしたときに誘いめいた文句はかけないことにしていた。この隠居に限らず、老人はそれぞれの流儀がある。ままに任せておいたがよい。そうした世知が、世間知らずの稚児と異なり、高齢のひいき客を祐介に引きつけていた。
「またちょいと、おまえさん痩せたねェ。まあいい、そこへ横ンなんな」
「へェ」
 祐介は逆らわずに布団の上に横たわった。衣服のない体は茶屋の水のせいか外に出ることのない生活のせいでかよほど色が白く、もとから少なかった体毛は風呂のたびに下働きにきれいに抜かれて女のような光沢を帯びるに至った。胸のあたりに乾いた手の置かれたのに、ふ、と息を吐いた。自分では気を遣ることのない老人の夜は長い。気が遠くなるまで何度も手や口で嬲られることはいつも気が重かったが、昨夜のような客に比べればよほどましなのだ。にもましてこの夜は気がかりがあった。蝶の紋も若い侍も、西園寺を指していた。昨夜のことは偶然だったのだろう、趣向を変えてたまたま陰間を買いに来ていたのだろうと自身に言い聞かせ、またほとんと信じかけていたというのに。もしも、もしも探してくれていたのだったら、と…
「どうしたィ、こんなとこにあざァこしらえて」
 ふいに問いかけられて、祐介ははっと我に返った。
「あ、あァ…」
 見れば灯火に青く浮かんでいるのは、昨夜つけられた手首や脇腹のあざだ。思わぬ邂逅に気をとられて、今の今まで忘れていたのだった。
「ゆうべの客かィ?」
「……転んだんでさァ」
「そうかよ」
 祐介はびくりと身のすくむのを覚えた。老人の目が鈍くぎらついている。そういえば、一代で財をなしたというこの老人が隠居したきっかけは、妾を打ち据えて、それも粗相をしたとかいうのでなしに半殺しになるまで打ち据える事件を起こしたため、公儀の聞こえをはばかったからという。
「ご隠居、勘弁を…」
 言葉は押し殺した悲鳴に消えた。助けを求めることは無意味だった。かれが死にでもすれば店主は老人から過分な詫び料をせしめることができるのだし、それはかれの稼ぎよりも多い。老人の折檻は夜半過ぎまで続いた。


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