- 2007年09月05日(水) 奥の院の軒先にからまった木彫りの龍が鳴いている。ごうごうと鳴いている。 「神に遭えば神を殺し仏に遭えば仏を殺せ」と、宗楚のひとりは言った。つまり禅とはそのようなものだ。あらゆる概念の失せたところに実相を見ること。仏を殺さねば仏は見えぬ。仏を知ることはできぬ。座禅とは、砂壁に面して座り続け、そこにあらゆる影を殺してゆく孤独で殺伐とした作業だ。 かれ、若い雲水に過ぎない風月にとって、孤独も殺伐もさしたる困難ではなかった。座り続けるという肉体的な苦痛さえ、なにほどのものでもない。奇妙な逆説であったが、先へ進むことはかれにとってあまりにも当然のことであって、そこに困難があれば落ち着き払って越えゆくだけのことなのだ。むろん手に余ることもあるだろうが、それにしたって時間をかけ、長上に助言を仰げばやがて越えうるものに違いなかった。問題は。 問題はやがて戻らねばならないというところにあった。これより先に進んだときに、戻りうるだろうかと風月はしばしば自問した。戻れねばひとでないものになる。それは進み行く行程のうちに明らかであったから。だから、進むにつれ考え込むことは増えていった。この魔、この神、この仏を殺してよいものだろうかと。そうしても俺は人間に立ち戻るための道標を失うことにはならぬだろうかと。 そして殺しかねているもののひとつがその龍だった。雨に応じて喨々と、風に応じてごうごうと吠える奥の院の龍を、たとえそれが仏や神の幻影にもまして幻影にすぎなくても、その孤独な生き物を幻として腑分けし解剖し葬り去ることはなぜかためらわれた。風月はふ、と息をつき。 ぱしん、と教僧の警策が肩を打った。どうやら迷いは姿勢の乱れにあらわれていたと思われた。風月はその痛みに薄く笑い、そろそろ山を降りるときが来たのを悟った。かれはこれより先には行かない。 -
|
|