- 2007年08月08日(水) (ある案内状) 最初の角を右に曲がって下さい。百日紅の曲がった枝がブロック塀の向こうから伸びている家のある角です。古いトタンの屋根のその平屋は、もうずっと前から腰の曲がった小さなおばあさんが住んでいるのですが、自分に似ているような気がして、その枝をどうしても切れずにいるのです。またこの百日紅の上にはあかぼっこという名前のおかしな奴が住んでいます。みどりちゃん、あまのじゃくのお話を読んだことがあるでしょう。あんなふうにひねくれもので、だけど悪くはない奴です。おばあさんは耳が遠いので、誰かと話をしたいというだけなのです。話しかけられたら僕の妹だと言って、ちゃんとご挨拶をなさい。そうすればひどいことは言わないでしょう。 さあ、角を曲がったら、二階建ての大きなお屋敷の、椿の生け垣がどこまでも続いているのが見えるでしょう。この大きなお屋敷はちょっと知られた旅館で、いまでも天然の風だけが冷房なのですが、ここらの高台にときどき沸いている清水の水口が敷地内にあって、大きな池になっていて、夏でも十分に涼しいのです。それに渡り廊下にはすだれが張ってあり、風鈴が吊されてあって、炎天下を歩くあなたの耳にも、心地よい音を響かせるでしょう。ちょっと見れば、きりりと髪を上げた粋な仲居たちが忙しげに立ち働いている様子を見ることもできるかもしれません。ただ驚かないように言っておきますが、泊まり客は江戸見物にいらしたあちこちの小さな神社の神様がたです。大きな神社の神様がたは宮内省がご面倒を見るのですが、堅苦しいのが苦手な方々はこの旅館に泊まられるのですよ。ですから、軒につっかえそうに大きかったり、狐や狸のようだったり、お首が長かったりしておられても、不作法なところを見せてはいけません。いいですね、でないとみどりちゃん河童に変えられてしまうかもしれませんよ。 さて、生け垣が切れると、ここからは胸突きの上り坂です。小さな家の建て込んだ路地が左右に伸びていますが、そのうちの大半はいわゆる長屋です。植木鉢やなにやをくねくねとした、人一人通るのがやっとの小道に並べていっそう狭く、その向こうにポンプのついた井戸があります。そうしたものを見たくても、あんまりじろじろ見たり中に入っていったりしてはいけませんよ。長屋の住人はみんな気がよいですから、通りすがりでもお茶に引っ張られて、お兄さんのところに来るのが遅くなってしまいますから。坂を急いで登り切ったら、大きな柳の木があります。ちょうど涼しい木陰もあるでしょうから、一休みするくらいは良いですよ。でも遅くなっていたら、立ち止まってはいけませんよ。ちょっと性根の悪いぶらさがりがいて、人を脅かしては喜んでいるのですからね。こいつのことは町内会でも悩みの種です。三軒となりのお嫁さんがこいつに驚かされて、危うく流産しかかったときには退治してやろうかと息巻いた人もありましたが、長年住んでいるものを追い立てるのもかわいそうだというのでそのままになっています。 さて、そこからはまっすぐ、まっすぐ。あなたが不安にあるといけませんから、途中に見えるものを書いておきましょうね。左手にお稲荷さん、右手に赤い屋根の洋館、それから蔦に埋もれて崩れかけたような家があります。ちょっと廃屋のように見えるかもしれませんが、ここには変わり者の学者の先生が先頃なくなった若い娘さんと一緒に住んでいるのです。この娘さんは美しい人ですが、嫁いで間もなく亡くなって、そうしてみると婚家にいるわけにもゆかずに家に戻ってきたのです。もしぼんやり外を向いているうっすらした白い人影を見かけたら、きちんとご挨拶をするのですよ。 さて、学者先生の家を過ぎたら、お兄さんの家はもう目の前です。よくたどりつきましたね。あなたの好きな水羊羹とお茶を涼しくして待っています。このあたりは自動車や馬車はほとんど通りませんが、洋装品店の座敷童が自転車を走らせていることがあります。気をつけて下さいね。 -
|
|