終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2007年06月30日(土)

遊び回り@覚え書き

・アンリ・カルティエ・ブレッソン展(1800円)
 国立近代美術館で開催中。

二十世紀を撮ったフランス人の写真家。
はじめ絵画を志し、のちに写真に転向した。
じつのところかれについてはほとんど何も知らずに行った。
最初は報道写真と思ってみていったのだが、そういうわけでもないようだ。
と、気づいたのは中盤の「風景」セクションでだろうか。

もっとも第二次世界大戦直後のダッハウ収容所における「つるし上げ」の
一連の写真や、南京・上海における混乱の様子は報道写真として一級だ。
しかし影と光の美しさ、一瞬というものに対する思想は芸術家のそれだ。
かれが最期に絵に戻っていったということは、実によく分かる。
かれの「決定的瞬間」とは報道のそれとはまた異なる意味合いだ。
いや、本質としてということだが。

もっとも多くの時間、わたしを引き留めたのはギリシアの写真で、
それは坂の向こう、ひとりの少女がまさに階段を駆け上がって
曲がりくねった路地の向こうに姿を消そうとする一瞬だった。
写真は、写真というものは、そこに芸術を盛り込もうとするなら、
現実と偶然に仮託して、自らの思想と理想と感情を語るものである。
それはいわば遭遇だ。
外的事象に遭遇せねばむろん、撮れない。
だがしかし、それを撮る準備が、あらゆる準備ができてなければ撮れない。
しかもそれは一瞬のうちに決断され捕らえられ、あるいは逃される。
あれは、あの写真は、確かにかれの真髄を語っていた。
だがその遭遇をこえて語ろうとするなら、筆がいるだろう。

さて、しかし純粋に面白かったのは肖像写真だった。
二十世紀の特権とは、肖像写真に残されうるということにある。
キリストの写真が残っていれば、ムハンマドの写真が残されていれば
歴史は変わっていた。なぜならかれらが人間に過ぎないことがわかるから。
しかもいかなる人間かがわかるから。

まあ、それはさておき、肖像写真は「やらせ」である。
「そこに座ってください」「こちらを見て」「そう、首をまっすぐ」
「自由にしてください」「カメラを気にしないで」「自然に」
それとも一日行動をともにしてスナップふうに撮るのか。
いずれにせよ、カメラはなにを映そうとしているのか、というのは
写真家を除いては考察しえない問いだ。

マティス、カポーティ、それからピカソ。
報道が描こうとする硬質な、客観的な、ぶしつけな絵柄ではない。
対話のようなポートレイト、対話の中にあらわれてくるひと。
かれでなければ撮れなかった写真だ。これは絶賛だ。
だがそこで問わねばならない。
撮られた人々は、画面からこちらを向いている人々は、
誰(友人、家族、それとも他人?)に向ける顔をしてそこにいるのかと。
そしてまた、それは、かれらの本質だろうかと。
友人としてのスナップなら、肖像などと銘打つべきでない。
マティス、カポーティ、ピカソの肖像写真が好きだ。


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