- 2007年06月08日(金) 遊び回り@覚え書き のまえにオイオイな話。 私がほとんど一発でまいった「レッチリ」ベーシストのフリーだが、 面白いこぼれ話を聞いた。というかこれまで知識ゼロだったしなあ。 弦仲間のギタリスト、ジョン・フルシファンテは一度、 レッチリを脱退しているのだが、その原因というのが、 このフリーに告白してフラれたからだ、というのである。 おーいおいおいおい…。 も、戻ってきたということはアレか、ちゃんと吹っ切れたのか? しかしあれだな、あのベースは良かった。 クイーンのジョンの屋台骨みたいなベースとは全然違うんだが、 なんというか、こう、手を打ち鳴らし、足を踏みならしたくなる。 そういえばかれはアンコールでトランペットを吹いた。 特有の哀愁を含まない、猛禽のようなおとを初めて聞いたような気がする。 ・「ロシア皇帝の至宝展」、「発掘された日本列島2007」 いずれも江戸東京博物館。 「クレムリンの大遺宝」と題されたモンゴル支配以前の最初の一角から、 エカチェリーナ以降のいわばヨーロッパナイズされた帝政ロシア時代まで。 ロシアの変容、しかも受容による変容というものの巧まざる陳列だった。 なんというか、おもしれー。 スラブ/ケルトの渦巻き文様を主題とする不安定な精密さを持つ美。 それが明らかに外的なものの導入によって変化し、 退屈なロココの凡庸な華美さをまとい、 しかも十九世紀となってもなお変わらないものがある。 鋼鉄の線で貫いたように、それははっきりしている。 だがいったいこれはなんだろう。 ここでわたしは再びスラヴァ、ロストロポーヴィチを思い出した。 「ロシアの魂というものは確かにあります。 武器を持たず死に向かって突き進む力です。 ネヴァ河から見るあのどこまでも平坦な冬の原野の風景なのです」 しかしながらそこには極めて力強く金属的な冷酷さもつきまとう。 抵抗という言葉はじつに便利なものだ。 だが抵抗者がより良い新秩序の構築者であることはそれほどない。 黄金に描かれたイコンをさらに宝石と黄金で飾る人々のことを考える。 ロシアとはなにか。 それはたしかにまだもう少し考えるに値する問題だ。 「発掘〜」は実はこっちがメーンだった。 いやあ、良かったなあ。すげーすげー。 三角縁神獣鏡を初めて見ちゃったよ。うほーい。 いやまあそれはおいといて、だ。 水晶を使った石器を初めて見た。レアだなあ。 あんな固くて結晶性向も見極めにくいものをなんだって使ってたんだろ。 また埋納されたまま忘れられた銅鐸の謎についての新解釈、 それから葬儀のときのあの旗。あれいい。あんな華麗なものが 集団墓に無数に立てられているような風景はめちゃめちゃそそる。 それに縄文式土器好きだな。あの装飾性とあの朴訥さ、 さらにあの謎めいた雰囲気は何に由来するのか。 ものは材質から離れることはできない。 金属には金属(中国の青銅器をみよ)が自ずから導くところがあり、 木も石もそれぞれに文明そのものを方向付ける。 ではあの手と粘土からなる分厚い土器と土偶はどうなのか。 あれはどのような神と思想を導いたのか。 われら、われらが父祖とは誰であったのか。 どのような心的世界を持ち、どのような世界観のもとに住んだのか。 遺物は確かに語っているのだが、われらの謎解きは遅々として進まない。 ・「パルマ展」、常設展示 国立西洋美術館にて。 正直あんまり期待していなかったのだが、 まああれだ。期待してなくてよかった。面白かった。 一番見たかったコレッジョは数えるほどしか絵がなかったが、 「幼児キリストを礼拝する聖母」に見るあの優美さは ラファエロに勝るとも劣らない。ため息を誘うほどだ。 スケドーニの「キリストの墓の前のマリアたち」に見られる あの濁りのない色、色彩そのものを置いたといいたげな様はどうだ。 素晴らしい単純化と描写力によって画面は一つの全体となっている。 まあそれ以外はすげーつまんなかったんだけどさ。 あ、「戴冠する聖母」「聖チェツィリア」はのぞく。 こうした卓越した絵と凡庸な絵を見るたびに感じるのはこういうことだ。 芸術とは何を描くかではなくどのように描くかではなく、 何をあらわそうとするかだと。それはまさに赤裸々なものだ。 天才とは努力しうる才だというが、そうだ。 何も見えていない人間には、先への行き方などわからないから。 常設展示も面白かった。 モロー、ヴァン・ダイク、モネ、ルーベンス、ゴッホ。 などなど。有名なひとの絵はまああれだ、小品が多いが、それなりだ。 ああいう時系列な展示を見ていて思うのは、やはりモネは偉大だった。 それまで絵は何を描いていたかというと、あれだ。 アレではわからないだろうが、ええと、まあなんだ。 理想とでもいおうか、真に迫ったなんとやらだ。 それに対してモネは視覚の印象=「どのように見えているか」を描き、 しかしてその後の画家たちはそれを追求せざるをえなかった。 果たしてそれは一つの罠だった。視覚に踏み込めば色彩の実相、 つまり「我々は何を見うるのか」というメカニズムに踏み込む。 さらには心理、大脳生理学=「我々の脳はどのように見るのか」に至る。 つきつめていえば記号論あたりはそのゆえにこそ出た。 これは実は袋小路である。だがまあ迷い込んだものならば、 始めたことならば最後までやらねばならないのもわかりきったことだ。 大丈夫、人類が滅ぶまであともう幾らもない。 ・国立科学博物館 特別展は死ぬほどどうでもよく、常設展示の恐竜が見たかった。 竜脚類が! アパトサウルスが! ティラノサウルスが! フタバスズキリュウ! ああああ・・・。だめだ、恐竜大好き。 骨格標本を穴のあくほど見ていて、思うのは「足が細い」こと。 細いといったって私の胴回りくらいはある。 だがあの巨体を支えることができるとはとうてい思えない。 重さ何トンの世界だぜ? どんな筋肉、どんな臓器ならで維持できるのか。 そーいや地球の重力は白亜紀ごろは今の半分だったとかいう珍説があった。 実物見てるとそう思いたくもなる。 あんな巨大な腹はどんな腹膜なら支えられるってんだろう、とかさ。 夕刻から自然ドキュメンタリ「青い惑星」「砂の謎」を同館で見る。 富山で行われるそういうコンクールの入選作だそうだ。 イギリス・スコッチの海岸の生態系を入念に描いた砂の謎が面白かった。 -
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