- 2007年04月14日(土) アイ・スティル・ラブ・ユー: ずいぶん昔のことだ。人の住まない国があって、それは上ることのできない切り立った崖に囲まれていた。燃えるような薔薇色の岩の壁は上る手がかりひとつなく、辺りに吹き荒れる強い風はいかなる試みも許さなかった。 人の住まない国を知る者はなく、その噂だけが人々の間に広がっていた。そこに住まう人ならぬものたちについて、その壮麗な異形の街と家々について、音もなく統べる畏怖すべき偉大な王たちについて。もっともそれらすべてが無責任な想像に過ぎないというわけではなかった。いかなる理由によってか、人の住まない国の恐るべき断崖を超えてその禁断の国土に立ち入った、幸運もしくは不運なものたちが、数少ないながらいたからだ。 そのひとりがかれであった。かれは例えば私のような向こう見ずで好奇心の強い冒険家ではなかった。かれは薔薇色の崖に近い寒村に住む羊飼いに過ぎず、人の住まない国のいかなる種族か知られぬ住民の魔術にかかったのは、かれにしてみれば、まずもって不運な偶然としか言いようがなかった。 私がかれを訪ねたとき、かれは崩れかけた小屋の前に座り、この地方の民がしばしば噛む赤い野生の実を噛んでいた。村人によれば十九歳ということだったが、それよりも半世紀は年老いてみえた。元は他の村人同様、黒髪であった髪は真白く、日に焼けた肌は奇妙に若さを残しつつ、深い皺が無数に刻まれていた。広い帽子のつばに隠れた目はうかがい知れなかった。 「……」 かれは私を見ず、喜んで迎えるともなく非難するともなく、何事かもぐもぐと呟いた。わたしは近寄って彼にありきたりの挨拶をし、横に座っていいかどうかと尋ねた。かれは相変わらずもぐもぐと何事か呟いたが、特に否定の身振りをするわけでもなかったから、私はかれの傍らに座り、彼方の崖を見上げた。剥き出しの巨大な岩塊は夕映えの緋色を帯びた光線によって強調され、計り知れず高く厳しくそびえ立っていた。私はあらためて電流のような畏怖に打たれ、しばらくはかれに話しかけることも忘れた。 「……」 我に返ったのは、かれが今度はいささか厳しい響きで何事か言ったからだった。相変わらずその言葉は聞き取れず、だが何と言われたかはわかった。 (「そんなに見てはいけない。かれらが気づく」) 私はじっとかれを見た。かれについて私が知っているのは、ただある夕べに迷った羊を追ってゆき、翌朝あの岩壁の方から帰ってきたときには、別人のように老いていたということだけだ。村人はなおも声をひそめて私に言った。「あそこに行って帰ってきたのだ。あれは−−に会ったのだ」。 かれは私の膝に左手を置いて、もぐもぐと呟いた。今度は聞き取れた。 (「おまえが何を言いたいかはわかっている。おまえの言う通りだ。わたしはあそこに行き、かれらに会った。だがそれについては聞くな」) 私は多分、何か言おうとして口を開きかけたに違いない。だがかれは唇の上に人差し指をかけて、小さく舌を鳴らした。そして私を見た。 焼けた褐色の睫に縁取られた目は暗く、深い洞窟のように暗く、そして深かった。この目が何を見たのかと問うことは恐ろしかった。私は押し黙り、日暮れてゆくに任せた。かれは再び目を伏せ、沈黙を守った。 しかしながら私は遥か彼方からかれに会うためにやってきたのだし、このまま永遠に黙っているわけにはいかなかった。 「何が起きたのですか」 私の声は震えていた。かれはしばらく押し黙り、やがて低い、聞き取りにくい声で話し始めた。千の脚を持つ悪霊の神々、異世界の彼方から来た恐るべき魍魎の街とその上に明け暮れる青ざめた二重の太陽と永遠の半月について。私たちは話し続けた。夜が深まり深夜に至り、闇に沈んだ崖の上に幾度も稲妻がひらめくのが見えた。 私たちは恐ろしさに体の芯まで震えながら、それでもなおも話し続けた。燐光を放つ粘つく街について、その巨大で脈打つ建築群について、不定形の窓の奥に住み着いた名無きものについて話さずにはいられなかった。恐ろしさのあまり黙ることはできなかったのだ。彼が聞くなと告げた意味は明白だった。私たちは恐怖と破滅の予感に怯えながら、もはや止められなかった。 時刻は深まり、夜は反転する気配を見せず、私は尋ねた。 「どのようにして戻ってきたのですか」 彼はびくりと跳ね起きた。見開かれた目を照らし出して崖の上からあふれ出た稲妻が走り、激しい雨がひといきのうちに私たちの上に叩きつけた。 「どのようにしてだと?」 彼は叫んだ。むしろそれは重苦しい叫びだった。私ははっと息を止めた。 「ばかめ、まだわからないのか。私は戻ってなどこなかった。どうして戻れよう、ああした場所から、ああしたところから、どうして戻るなどということができよう。どうして戻るなどということがありえよう」 その言葉の先は聞こえなかった。とりわけ近くでとりわけ激しい雷鳴と稲妻が同時にほとばしり、天から地へ、それとも地から天へ、青白い火柱が走った。私は吹き飛ばされ、おそらく失神していたに違いない。顔を打つ雨におぼれかけて目を覚ましたときにはそこにはもうかれはいなかった。かれはおらず、ただ一塊の灰の柱が残っているだけだった。灰と塩の柱が。 どのようにして朝を迎えたのか私は覚えていない。私は周囲が明るくなり始めるとすぐさま村を離れ、懐かしい文明の地に戻った。そして故郷の小さな村に帰ると小さな雑貨屋を開き、もはや冒険のことは考えるのをやめた。 私は忘れようとし、今ではあの当時のことを思い出すことも希になった。もっとも、ときおり、激しい嵐の夜にはこんな思いに駆られることもある。人の住まない国、あの崖の上の未知の大地に誰か探検家が激しい野心でもって足を踏み入れることがあるかもしれないと。だがかれが戻ってくることがあるとは思われない。あの場所の呪いはおそらくそこにこそある。 ああした体験をしたものは、本当には戻ってくることはできないのだ。それこそがああした体験の真髄なのだ。ああしたこと、ああした場所をのぞいたものはそこに縛り付けられ、そこより先に進むことができない。残るのは絶えざる一つの問いだ。過ぎ去ることのない一つの現実は、一つの経験は、いったい呪詛なのか祝福なのか。 だが私はこの故郷の地にありながら、かれと同じ目をした男女にときおり巡り会った。かれらは一様に押し黙って、ただ恐ろしいものを見てしまった目を伏せて内面の苦悩に耐えていた。その脳には追い払いようもなく恐怖と悲嘆が住み着いており、私はかれらに話しかけることを慎み深く避けた。 私は思う。われらは往々にしてあの人の住まない国、至上の恐怖をもって永遠の静止を命じる悪霊の領土にそれと知らずに踏み込んでいる。 (ママ、ぼくはたった今、人を殺してきた) -
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