終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2007年01月27日(土)

最近そうそう絵画展など行かないのだが、

県立博物館で清水登之展をやっているので見てきた。
べつに見に行こうと思っていたわけではない。名前も知らなかった。
が、あちこちで見るポスターに、なんとはなしに引っかかった。
なんというか、描かれているものに対し描いているものが疎外されている。

すぐれてデザイン性の高い、もう抽象画といってもいいような画家だ。
戦前に生まれ、渡米・渡欧して帰国、第二次世界大戦直後に死去した。
初期の絵のうち「引っかかった」のはミスCの肖像。
若くはない。ハイ・ミスの部類だろう。
女の目は影の中にあり、用心深くあるいは怯えて伺うようにこちらを見る。
さらに米国で認められ始めたころの絵の群れ。
視点は異様に高くあるいは遠い。広角のレンズを使ったように。
そして暗さ。手を伸ばしても届かない距離にある。

帰国してからの絵は苦悶が手にとるようだった。
土くささ、日本らしさというものを前面に押し出しながら、
しかもなお帰朝者のくるしみがにじみ、生家を描いてなお憧憬に似る。
押しつけられたプロパガンダを迎合よりももっと深く没入する魂の光。
そして戦争。一転したリアリズムはかれが記録映画にこり始めたころか。
そこでさえ、兵士たちはかれに背を向けている。

一枚だけ、身に迫る絵があった。難民たち。
かれが南方戦線に取材に赴いたときに得たイメージだろう。
顔さえさだかでない難民たちは一様にこちらを見る。
こちらを、鑑賞者を、だがなによりも制作者を。
この一枚だけがおそらく、作者が世界に身を置いていたという証明だ。
まったくそうだ。そうでなくてどうして、
これほど深い暗澹たる思いを見る者のうちに呼び起こせるだろうか。
この暗いおもいは、作者が描きながら貫かれていたそれだ。

戦争によってかれは一人息子を失い、自らもストレスから病死する。
わずか一時間ほどのあいだに脳に焼き付けるにはあまりに深い思いだった。
このように生きた人間、まさに生きた人間を小林秀雄はなんというだろう。
かれほど戦争について語らなかったひとはいなかった、
そしてまさにその渦中にあってそれを生きなかったひとは。

今夜は清水画伯の絵の夢を見るだろう。あの難民たち。


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