終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2007年01月13日(土)

あめつちに ただひとりいてたつごとき
そのさみしさを きみはほほえむ


という言葉を思い出したのは、松が峰教会に出かけたからだ。
宇都宮に古いものは驚くほど少ない。
大空襲で民家の古いものが失われ、
最近になって明治の創建になる県庁が改築によって失われ、
いま残っているのは樹齢400年の大いちょうと、
空襲をこえて120年余を存在し、いまも生き続けるこの教会だけだ。

生き続ける、といったのは、脆い大谷石からなるこの教会が、
人々の信仰という目に見えない諸力を絶えず吸入しコミュニティとして
機能することを義務づけられているからだ。
パイプオルガンは日々使われていなければならない。
大聖堂の床板は参詣の人の足と掃除の手がなければならない。
大谷石は必ず毎年、点検と補修を欠かされない。
これがどれほど困難で、忍耐強い情熱を必要とすることか。

歳月をまとい、維持され守られるということのすばらしさまた困難さ。
すべての細部が呼吸しているようだ。
わたしはこの教会をひどく愛しくおもう。
この教会によせられつむがれた思いのゆえに。
こうした深い情愛はまさに郷里に対するものと等価で、
だから私は、どれほど遠くへゆこうとも、確かなものを持っている。

ほんとうに価値あるものは、生きて死ぬということであって、
そのすべての細部を、深く深く愛するものが豊かに生きる。


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