終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年11月24日(金)

 かれのことを僕はどこまで話しただろう? かれ、シヴァスワミー。あの小さな村はもうどこにもない。かれという楔が抜かれてしまってから、あの村はかつての楽園めいた面影を失ってしまった。家々や人々は見えないところからじわじわと腐食し、荒廃していった。そうとも、大黒柱が抜き去られたとき、すべての梁が肋が影響を被らずにはいない。あの村は遠からず屋根の落ちた家のようになるだろう。そのとき荒れ果てた奥の土間に光が射して新たな青草が萌え出るかもしれないが、それはまた別のことだ。
 僕は旅を続けている。だれもかれがどうなったのか知らない。だが少なくともかれが死んでいないことは僕にはわかっている。旧知の死者は僕の前に現れずにはいないから。ならばそれでよしとしなければならない。
 かれ、シヴァスワミー。ぼくはかれがいったいどのような思いを抱えて生きたのか、また生きているのか知らない。いや、そもそもそうしたことは知ることができる種類のものなのだろうか? わけてもかれのような“神”が相手であるときに? 僕にはわからない。にも関わらず、僕はかれのことを考えずにはおれない。死者を食べ、それによって生き、それによって愛され敬されたかれのことを。僕にとって死者が親しいように、かれにとっても死者は親しかったのだろうか。どうした思いで死者たちの手と足とははらわたを食べていたのだろうか。僕はこれらをかれに問いたいのではない。僕はこれらの問いを僕自身のものとして問い返したいだけなのだ。
 さて、肝心のことを書いてこの文章をまとめよう。軍人たちが乗り込んできて寺院を焼き、多くの僧侶たちを殺し、かれを連れ去った。かれが少しでも抵抗したのだろうか。かれはひどく殴られたのだろうか。それによって少しでも驚いたのだろうか。それらすべてかれの人生にはなかったメニューだが、案外かれはなにほどでもなく受け入れたのではないかと僕は思う。どこにいてもかれはかれだ。ただもしかしたら、かれはかれの旧知の人々を食べることができないことを残念に思っているかもしれない。それらの人々は生涯の終わりにかれに食べられることをなによりも願っていたのだから。それは寂しく土中に朽ちるより、どんなに幸福な思いを誘っただろう。
 さあ、ほんとうに終わりにしよう。その前に僕の名前を伝えたい。僕は十塚光彦。僕は死者を見る。僕は死んだ弟を捜している。僕はまだ西へ行くつもりだ。




シヴァスワミーについての回顧を終えた。
終えたがどうもだめだ。
このインド人については、
内面からの回顧が不可能なので、このように書くしかないのだが。


九相図というやつがある。
人間の死から腐敗、白骨化までの相を描いた図だ。
ふつう、人間の愛情はこのどこかの段階やストップがかかる。
あえて進むと青頭巾になる。つまり腐敗した血肉をすすることになる。

そうした愛情を異常だとするのは純然たる健全さだが、
シヴァスワミーの場合はこれらすべての相を超えて人を愛する。
いわばかれには育ての親の眼球に歯を通すことと、抱擁が等しい。
この愛情は異常とされるだろうが、かれにはなんら奇妙なことではない。

かれは骨に至るまで深く愛する能力を持ち、
かれにとって食べることはもっとも親密な
もっとも深い、もっとも懐かしい会話なのだ。
そうした人間は、たぶん人間とは呼ばれないのかもしれない。



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