終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年11月23日(木)

『生きられた家』(多木浩二)を読んでしばらく考えていたのだが
宮本常一の『日本文化の形成』のしまいの部分でがつんときた。

家というものはおよそ我々の精神の顕現であり生の全容の神殿だ。
浦の家が舟に起源を持ち、地の家が古い縄文の竪穴式住居に起源を持つ。
しかしわれわれはただ至便であってしかし生のいかなる階梯にも属さぬ
いわば片手の家に住み、しかもそれは何にも似ていない。
いったいこれほどの断絶のあるときに、「故郷」というものが
まさにそれが存在する余地などありえようか。

ローレンツは、
「親友とは郷里価(ハイム・ヴァレンツ)を持つひと」と言う。
だがいま家すら郷里としての資格を持たない。
いわんや人、いわんや町。
我々は我々の精神の属さぬ家に住む。
それは歴史の喪失ではないのか、知識を離れた歴史の。

こうした家に血肉を通わすにはいったいどれだけかかるだろう。
それだけの日々のうちには、もう我々はどこにもいなくなっている。
居住のうちの漂白に絆を失えばどうなるか。
われらはどこへゆくのか。

境界人としての苦悶の根深さをあらゆる人が負えようか。

ある少年が、育ての親たるジプシーに尋ねた言葉を思い出す。
「ぼくらはなぜこんなにいい宿営地を離れるの」
ぐずる少年に、ジプシーは応えた。
「我々はその土地を最も深く愛して去るのだよ。
 そうすればいつまでも懐かしく思い出せるからね」
結局、少年はその言葉に従ったが、もっと大きくなってから隊を離れた。
こうした論理のうちに生きられるのは、
その血に放浪の運命を刻まれたかれらだけだからだ。

わたしは物心つく前に故郷を失ったもののうちの一人だが、
ときにこの心は病んでいるのではないかと疑う。
なるほど言葉と知識においてわたしは日本人だ。
にもかかわらず私の手と目と心はそうではない。
ともすれば砂漠と南国に私の思いは攫われていく。
つまりこういうことだ。

わたしは家にかえりつくということがない。


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