終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年10月17日(火)

CSルイスの考察の要約:

 十字架を見るとき、最初に感じるのはたただ畏れであるが、もしその人が「私に代わって死につかれた」と信じるなら、そのとき、私たちは一人びとりが無限に深い力を得ることになる。なぜならその犠牲は私が生まれる前から捧げられていたのであって、いかなる猶予もなく、いかなる打算にもよらないからである。

 そしてまたそう信じたとき、私たちはその人にすべてを負うのである。生命も幸福も悦びも歓喜も、その人に負うのである。そうとも、これほど深い、無償の愛を捧げられたとき、自ずから溢れる愛を心に抱かないものがあるだろうか。その人に対して何も思わず、意見を持たずにいることはできない。その人はひとつの巨大な炬火であって、これを見るものは、その熱のもとに暖まるか、逃れ去って背くかの二択しかないのである。

 これはもちろん、倫理的にきわめて巧妙な強制を強いる計略である。しかし、それが神の計略であるとするなら、神は私たちを罠にかけておん自らのもとへ導かざるをえないほど、それほどに深くまた激しく被造物を愛し給うたという結論に、必然的にたどりつかねばならないだろう。

CSルイスがその著書で言っているのはそういうことだ。


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