終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年10月16日(月)

知るということ:

 その日は朝からずっと、ククールはなんとなしに気分が優れなかった。
 聖歌を朗唱しても、訪ねてくる人々の治療をしていてさえ、不安に似た居心地の悪さは消えなかった。かといって熱があったり腹具合が悪かったりするわけでもない。
 いったいどういうわけだろうと、ククールはまるで匙が進まぬ昼の食事を前にして、ついに考え込んだ。しかし思い当たるふしはなく、鐘の音にせき立てられるように午後の日課を果たすために薬草園へ向かった。

 修道院の夕餉の時刻は早い。
 暮れ方の光は簡素な窓から射し入って、白壁に明るい橙色のまだらを落としていた。ククールはふと顔を上げて、そのうちのひとつに見入った。なぜという理由があったわけではない。ただそれが何かの言葉であるように思えたのだ。それは確かに彼に向けた言葉であったのだし、おそらくはこの朝からずっとかれに向けて語りかけていたのだ。だが読み解くすべだけがないのだった。

 晩課の祈りのさなか、不意にククールは気づいた。
 ずっと耳の奥で鳴っていた、ひとつの寂しい深い音色が絶えたのだ。絶えて、止んだのだ。それはもう二度とは還らぬであろう。世界は永遠にその音を失った。しかもそれはなにほども特別ではない。全ての音がそのようにしてついには失われ、しかも新しい響きは日々に夜々に生まれ来たって巨大な天の楽曲は終わることがないのだ。

 ククールは修道院を出て、川辺に歩み寄った。
 ましろい月の夜だった。どこまでも続く荒涼とした冬の風景を月光は無慈悲に照らしていた。強い東風が吹いて、葉のひとつも残らぬ木々の梢を震わせていった。ククールは流れの上にかがみ込んだ。水面は波だって、月影は千々に砕けていた。
 かれの兄が死んだのだ。



 予兆とか予感が好きだ。
 なぜかっていうと、知るとは論理的了解にとどまらないと思うからだ。
 先日、私の文章を「詩っぽい連なり」と評した方がおられたが、
 実際その通りだと思う。文章とは論理的説明ではなくて呪術だ。
 イメージを積み重ねて心象を作り上げる作業だ。少なくとも私には。
 だからこういう小文を書いているときがいちばん性に合う。
 誰か小説にしてくんないかな(コラ)


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