- 2006年10月14日(土) 十塚光彦: 十塚光彦は、少ない荷物の中から、毛布を取り出した。 夜明けまでには、まだ間がある。ありったけの服を着込んだ体に、毛布を巻きつけて、ほう、と十塚は嘆息する。吐く息は端から白く霞んでいく。気温は、おそらく五度もあるまい。陽がさせば、瞬くうちに四十度を越すというのに、今は真冬のようだ。 見上げれば、細い新月が西の空に今にも落ちそうにかかっていた。無数の星々が頭上をきらびやかに、まるで布に纏わる宝石のように散っていた。 「あれはオリオン、シリウス、カシオペイア……」 幾度見上げ、幾度数えても、その美しさに対する畏敬の念は尽きることがない。星々の生まれ、燃え、死んでゆくさまさえ、その都度に見えるような気がした。 ――とはいえ。 ようやく、そのあまりにも無機質な美しさに疲れて、十塚は、グルル、と唸りを上げた駱駝に視線を移した。この瘤のある種族をこよなく愛する遊牧民を除いては、お世辞にも美しいと評するものもない駱駝であるが、唯一の相棒となれば、話は別である。十塚は、背中を預ける形でその横に座り込んだ。 周囲は、砂漠だ。視界のきくのは、焚き火の炎の照らすわずかな円形の面積にすぎない。その外には、闇。質量さえ持っているかのような。そして無限にも思える重厚さを湛えた。わずかでも気を抜けば、この円形の陣地に踏み込んでくるのではないかとさえ思われる。大地に最初の生き物が這い上がるより前から住み着いていた闇の最後の生き残り、とも。否、最初の星々の炎を発し始めるに先立ち、この闇は存在したであろう、とも。 十塚は、砂の上に置いてあったノートを開いた。焚き火の赤光に映るのは、日記帖だ。表紙には、「1991.5〜」と書いてある。まだ新しい白を除かせる部分を残しながらも、紙はくたびれ、表紙は手垢に汚れていた。 ぱらぱらと繰るページを埋めるのは、上手からぬ少年の文字。やや右肩上がりの特徴のある。所々これまたうまからぬ絵の描かれて、風物を説明する。土地の人々の纏う衣服、当人してみれば珍しかったであろう市場の様子、風変わりなお菓子の形。旅人なら誰でもつけるような、他愛ない日記。言葉交わす相手のない中で誰に当てるともなく。 はら、と、巧まずして開いたのは巻頭の一葉。短い言葉の数語、ただ連なっただけの。十塚の目がゆっくりと瞬いた。一度、二度。焚き火はゆらりと眠たげに揺れる。口唇の、音なく静かにその言葉を読む。 『どこにも いない おまえへ』 十塚の家はいつも、静まり返っていた。そうだ、僕の記憶にある限り、と、十塚光彦は考える。春の真昼、ゆらゆらと揺れる庭の池の緑の水面。縁側に腰掛ければ、軒に映った光の斑が見えた。音は遠い谷川の響きばかり。その向こうには灰色に近い新しい緑に燃え立つ山々。梅の白さは濡れた白墨の粉。耳を澄まし、目を閉じて、鼻腔に深く呼吸を吸い込めば、温もった水から立ち上るにおいに春だと知れた。目を閉じてさえ、瞼の向こうのなんと明るかったことだろう。 黒の染料の臭いもまだ鮮やかな、真新しい制服の届けられた日のことを思い出す。 「兄さん、僕にも着させてよ」 「だめだよ、おまえには大きすぎるよ」 「兄さん、少しだけだから」 「おまえには大きすぎるよ、裾をずって歩くよ」 「兄さん、汚さないから」 台所からはことことと味噌汁の煮立つ音。とんとんと包丁を使う音。真昼の光のなんとまぶしく縁側に落ちていたことだろう。薄青いパジャマを着て、高い熱に頬を子供のよう赤く染めた弟の、なんと懐かしい声で幾度もせがんだことだろう。 部屋の隅には日本人形が硝子の箱の中で傘を持って立っていた。とうに亡くなった祖父、祖母、曽祖父、曾祖母、古ぼけた写真は黒い額の中におさまって壁にかかっていた。奥の座敷へ通じる襖は開かれて、その隅の仏壇がほんの少し金色に明るく光っていた。 「ほら、吉彦、見てごらん」 「ねえ、兄さん、僕にも似合うね」 「襟が少し曲がってる。じっとしておいで。――ほら、もういいよ」 「ねえ、兄さん。僕も高校に行きたいな。でも、中学校を卒業しなきゃいけないんだね」 「ほら、見てごらん。おまえにもよく似合う」 母の鏡台の丸い鏡を二人してのぞきこんだ。パジャマの上に大きすぎる詰襟の学生服を着込んで、吉彦は嬉しそうに笑った。熱でいよいよ大きくなった目が、溶けたように細くなった。食事時を知らせる母親の高い声が二人を呼んだ。畑から戻ってきた父親が玄関の引き戸を開ける音が玄関の方から響いてきた。開け放たれた障子の向こうから、遠く川の水音が響いていた。 ――ああ、なんと。 遠い人々。遠い日々。遠い記憶―― その瞬間にさえ、知ってはいたが。十塚の家の誰もが知ってはいたが。吉彦は中学校を卒業することはできない。父と母は遠からずいなくなる。光彦も。十塚の家は空家になり、やがて朽ちてゆく。そこにいた人間の痕跡もそのままに。 十塚の家の人間は、多かれ少なかれ知っていた。知っていて、別だん不思議と思うことなしに日々を過ごしていた。それは空気のようなものだった。感情とは別のものだった。昨年死んだ隣家の嫁と学校の帰りすれ違うことも、多かれ少なかれ誰もが顔見知りであるような狭い村をどこか誰かの面影はあっても見知らぬ老婆がにこやかに歩いてゆくことも、不思議であるとは思わなかった。もっとも、それを口に出してはならない、と教えられる必要こそありはしたが。やがて親しい人々が死ぬことも、それがどのように来るのかも、なぜか知っていた。それでいて、何一つ気負うことなく日々を過ごしてゆけた。するべきことを果たしてゆけた。十塚とは、そのような家だった。 それが幸いなのかどうかはともかく、と、小さく十塚光彦は呟いた。手の中の日記帳は砂の上に落ちて、さらさらと寄せて止まぬ細かな砂塵に文字を翳ませている。 吉彦は逝ってしまった。それに先立って両親も。十塚の家の雨戸はこの手でたててきた。小さくなってしまって動きにくい喪服の脇のつる感触さえ、まだそのままに思い出せる。 今はあの鏡には蜘蛛が巣を張っているだろう。誰も歩かなくなった廊下と縁側は次第に朽ちてゆくだろう。台所はもう水音を聞くこともないのだろう、時が屋根を腐らせ、壁を伝って水滴が漏れ始めるまでは。 遺産の整理は父と母の手ですっかりついていて、簡単な目録の後には人を頼らなければならないときのためにと遠縁の叔父の名前と連絡先とが書き付けられていた。電話の伝言でも書き取るような、簡単さで。 悲しかった。寂しかった。膝を抱えて、泣きながら眠りもした。置いて行かれたことに憤りもした。後を追おうかとも、思った。 ――それでいて、やはり十塚の人間なのだった。 葬儀の翌日、叔父に電話をした。型どおりの短い会話の後に、どうするのかと問われた。 「そうですね」 黒い重い電話の受話器を持ったまま、しばらく、十塚光彦は考えた。 「砂漠へ行きたいと、思っていました」 叔父は少しの間黙っていた。家を出て既に長い電話の向こう側の相手も、やはり十塚の人間なのだと、十塚光彦は知っていた。そして叔父は、結局止めなかった。 あれから、めぐった国々はいくつになっただろう、と、焚き火の炎の明るむのを見て、十塚は考える。船で中国に渡り、列車に乗って。飽きれば下りて。高いチベットの山々の間をロバで歩きぬけた。真夏だというのに雪に降られて凍えもした。言葉の通じぬ人々に手厚いもてなしを受け、懐かしささえ感じる村々を通った―――幾つも。幸いに病気はしなかった。贅沢なもの一つ食べるわけでない旅行には、金はさしてかからなかったし、必要なものは、大きな町を通るごとに銀行から幾らかの金を引き落とせばそれで済んだ。孤独を感じることも――なかった。 「父さんとは、三度、母さんとは五度、か。おじいさまと、おばあさまは、一度づつ」 ぽつと十塚は呟いた。死者は、黄昏時に、あるいは朝靄のまだ晴れない時間に、視界の端をよぎる。ふと、見たことがあると思い、誰であったかと数秒考え――思い出して振り返ればそこには誰もいない。それでいて遠い人々の懐かしい空気だけはいつまでも残った。十塚が孤独を感じることは、なかった。ただ、そう―― 「吉彦……」 二つ年下の弟だけが、一度も姿を見せない。一度も。 「兄さんは、おまえの顔を、忘れて、しまったよ」 駱駝に体をもたせかけて、十塚は呟く。見上げれば、輝く星々は壮麗だ。月は既にない。ユーラシア大陸を半年かけて横切ってきた。ここは、砂漠。地図には『虚無の四半分』と記される、渇いた大地。地平線に至るまで濃淡も様々な茶色ばかりの。十塚は体にきつく毛布を巻きつける。駱駝を譲ってもらった遊牧民の男は、ずいぶんと心配そうな顔をして、長い間十塚を見送っていたものだった。 「おまえは砂漠に、ずいぶんと来たがっていたっけ」 十塚は静かに囁き、駱駝の汚れた毛皮を優しく撫でる。遠い日に弟の髪をそうしたよう。 写真嫌いの一家だった。数えるほども残っていなかった写真を持ち歩くことは、十塚はしなかった。懐かしさを感じるのは記憶の中に面影の破片――赤い頬、頬にかかった睫毛、額にもつれた真っ直ぐな髪――を何かの拍子に拾い上げたときだった。それらはあまりに鮮やかで、その都度に胸を貫くほどに懐かしかった。 「地図帳を開いては、いつか冒険に行くんだと、言っていたね。おまえの地図帳にはもう開きグセがついてしまっていて、落とすと、いつも、そのページが開いたね」 短い間と、深い嘆息を置いて、十塚は、呟いた。 「僕は、ここに、おまえを探しにきたんだよ」 帰るのは深い静寂。その名の人はもうどこにもいないのだから。十塚は静かに微笑んだ。静かに微笑み、深く嘆息した。深く嘆息し、目を閉じた。日記帳の文字は、もう半ば砂の細かな粒子に覆われている。そして砂を運ぶ夜半の風は止まない。 もう7年くらい前に死んでしまったキャラクター。 補足しておくと、十塚の家はいわば、視界の広い人間ばかりで、人間の運命や亡霊がフツーっぽく見える血筋。光彦はその最後の一人、ということになる。もっとも叔父さんまだ生きてるけどね。こっそり縁者もいるけどね。 実はこの断片のあとで、ジブリールくんと出合うくだりがあるんだけど、もうどっかいっちゃった。フロッピーの山から見つけた記念ってことで。 -
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