終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年09月17日(日)

ある軍師の肖像

 その人は万里のかなたにあって
 わたしたちを隔てるみずうみとみぎわは広く深い
 この小さなふねで、どのようにせば渡られんか
 離れすむもの思いは、たえることのあまりに難い


 寂しく美しい詩は、別れ住む夫を思う妻に託してよき君主を求める思いを歌ったもの。軍師はしばし口ずさみ、それから、ふと笑った。かれはすでに求める君主を得ている。詩にある悲傷の思いは心を去っていた。
 いま月光さす机上にあるのは酒杯とともに、国土の西半分を占める高地を潅漑する計画であった。同時に余剰の人力を活用する手だてであり、これを通じてよく訓練された国民を育成する路でもあった。十年、と、かれは君主に約した。十年でもって国を富ませ、国民を狼の群れのごとき精鋭に仕立て上げよう。そしてさらに続く十年で、天が下なる数多の王冠の一切をば御身に差し上げよう、とかれは約束した。そしてその約束は果たされるとかれは確信している。

「いかにして王国を富ましめんか、いかにして王兵を精強ならしめんか」
 かれは王の面前に立って申し述べた。
「潅漑にて無辺の農地を得るはいうに及ばざるなり。これによりて、もって百姓の土地なきに土地を与うなり。与うる土地は何人によらず王が所為なれば、人民は何人によらず王が所為なり」
 かれはしばらく言葉を止めて、待った。王は完爾として笑った。
「然れば王法の示すところはただに、王命に帰してもし死なば家族は安堵し子孫は侮られることなしとするのみ。ここによりて王兵は群狼に比すべし」

 説き来たり説き去りて計画はすでに途上にあり、かれは酒杯を酌みつつ夜光に憩う。よき王の臣下となるは楽しいことであった。しかしながら竹を削った簡の上に連なる文字のいちいちは、十年の後に兵役に喜んで出で立ちそのうちの幾分か、おそらく万は下らぬ幾分かが化すべき野辺の骨に見えて仕方がなかった。かれの聡い目には見えてさえいた。鬼哭愁々として夜露に濡れるべき無数の屍と流される血と。それゆえかれの手は震えていた。
 また机上にはより秘密の文書もまたあった。それは幾人かの間諜と謀議の敷衍するところにかれと王よりほか知らぬ計画の片々であった。すなわち。

「雌伏に有するは十有余年、いかにして他国を退けんや」
 かれは王の面前に座して密かに囁いた。
「我に策あり、東国に若き王と賢大夫なる王叔ありて、これを守る。隣国が治まるは王国が患いなり。しかればこれを離間せんとす。王に正夫人あり。甚だ美なれど子なくして妬心多し。夫人、王が室に王叔の新たに女を入れるを常に深く恨む。いまなお竈中に火種にも似て小さけれど、なんぞ此の争いに油を投じ、風を送り大火に育てざるや。これ易なり、甚だ易なり」
 さらに続けてかれは言った。
「我に旧知あり。知恵あれど疑心つよし。一年、かれよく賢人たらん。三年、かれよく国を治むべし。五年、かれ増長し変節して、私利をばむさぼらん。七年、かれ賢人を殺し、義人を殺し、もって国に人無きがごとくなるべし。われらなんぞ彼を西国につかわして王に見えさせんや。もって十年の後にはわれら西国を侵すこと燎原の火のごとくならん。これ易なり、甚だ易なり」

 説き来たり説き去りて、計画はすでに途上にある。さらにかれの目は遠くを見通して、月光のもとに憩うてありながら十年の先を眼前を見るごとくに見ていた。そしてまた同時に流されるべき無辜の血、無実の血、罪に染まるいくつもの手もまたかれには見え、牢獄に血を吐いて死ぬおとこおんなの悲鳴さえ、もうすでにかれの聡い耳には響いているのであった。
 これは悪だろうか? だが乱世はどのようにしてか終わらざるをえないだろう。ならば、かれの君主よりも良き帝王となるべき人をかれは知らない。そして、かれ自身よりも流されるべき血を少なく止めうるだろうものもあるまいという自負がある。そうとはいえ、最小でさえそれは膨大である。海を赤くし日輪を翳らすほど。手の震えは繁く、酒はこぼれて卓子に落ちた。
 命もいらぬ金も名誉も大義もいらぬ、とかれは王に会ったときに言った。そしてそれは今もなお変わらぬのであった。事実かれの居宅は廃屋のごとくがらんとして虚ろで、茅屋に隠れ住んでいたときと何も変わらぬ。心に重荷が加わり、酒に血の味が加わった分だけ悪くもなったとさえいえた。
 なにゆえ俺はここにいるのかと問い、答えはない。これは恋に似ている、とかれは声もなく呟いた。悠揚飛ぶごとき馬の蹄の音が屋敷に近づいている。そうだ、若い王の。


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