終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年09月01日(金)



 「かれ」について、なにが言えるだろう。多分、こんなことは、異邦人の僕などの言うことではない。それでも僕にしか言えないことでもあると思うから、僕はここに書いてみようと思う。かれについて。
 かれ、シヴァスワミー。その名前が正式なものなのかどうか、ここにいる人間は誰も知らない。名前も、生い立ちも、素性も。かれにまつわるすべてがぼかされ、霧のむこうに見るようだ。それをたくらみ、そうしたものを消し去るために手を汚したはずの者たちでさえ、今はもうなにひとつ覚えていない。僕はここにいる者たちとは異なり、迷信にも信仰にも縛られないが、それでもそこになにか見えない力が働いたのではないかと思いたくもなる。
 僕はずいぶんと先走ってしまったようだ。まずここについて話をしよう。ここはインドと呼ばれる国の高地にある、山々に囲まれた狭い土地だ。米と麦のとれる豊かな土地だが、どこを向いても山が壁のように立って視界を閉ざし、風があまり吹かない。年中こもっているむせるような熱気のせいか、年寄りたちには奇妙な風土病がはびこっている。西洋風の医者は一人もおらず、呪医が幅をきかせている。昔は小さな藩国として独立していたそうで、王族の男たちの前では誰もが地面に額をすりつける昔ながらの礼をとる。常駐する役人は1人もいない。信仰の中心は高台の寺院で、幾重にも壁に囲まれ鈍い灰色の塔の上には古い神々がうずくまる。かれはそこにいる。
 かれ、シヴァスワミー。年はよくわからない。それほど年配ではないだろう。もしかしたら三十にもなっていないのかもしれない。若々しく端正な顔の中には黒い両目があり、やや肉厚の唇は天平の仏のような微笑を常にたたえている。声音は深く低く、柔らかで、聞くものの心を得る涼やかな強さを持っている。それ以外にいえることは一つだ。かれはひとを食う。
 かれはひとを食う。文字通りの意味だ。かれはひとだけを食う。この土地で人が死ねば、すべて寺院に運び込まれ、かれが食う。だからこの土地にはどこにも墓がない。貴賎に関わらずかれは死人を食い、人々は死者の記念に寺院を訪れては、かれをなつかしく礼拝する。かれはすべての死者だ。
 またもや僕は先走ったようだ。かれについてもう少し、話しておくべきことがある。かれは神だ。ここやチベットで多く信仰される輪廻する神の一人として幼いころに寺院に連れてこられ、育った。誰がかれの生みの親であるのか、家族であるのかは誰にとってもどうでもいいことだ。かれはこの土地のすべての人間にとってただシヴァスワミーであり死者を食う神であって、ほかの何でもないからだ。かれに食われることによって死者は罪業を脱し、涅槃に入るとされているから、誰もがそれより以上は立ち入らない。
 さて、僕とかれについて話をしよう。僕についてはただ、日本という極東の国から用事もなくこの国を訪れた旅客であるという以上の説明は不要だろう。僕はヨルダンのほとりでかれに会った。なぜかれがあの雑踏の町にいたのかは知らない。死者が火に葬られる川べりの土手で、彼は巡礼者の白い布を体に巻いて立っていた。時刻は夕暮れで、かれの額には暮れかかった太陽の、金色の輝きがゆらゆらと落ちていた。僕は川べりから階段を上がりながら、いまなお解明されないかれのあの微笑に視線を吸い寄せられた。
「……」
 かれの言葉がどういう意味だったのか。僕はあいまいに頷いた。
「……?」
 明らかに問いかけと響くことばが落ちていた。僕はまた頷いた。するとかれも小さく頷いて手招き、そこに待っていた古い車にぼくらは乗った。車はがたごとと一晩かけて走り続け、夜明けの光がとどくとそこは寺院だった。あまり厳しく聞かずにいてほしい。僕はありのままを述べている。意味はある。つまりかれはそうした種類の存在なのだ。問うことも説明を引き出すこともできない。ついて行くか、行かないかのどちらかしかないのだ。
 僕はこの小さな土地にもう三ヶ月近くとどまった。日本ならば季節も移るだろうが、ここではただの暑さと猛烈な暑さの二種類があるだけだ。かれは僕から日本語を学び、僕はかれからこの土地の言葉を学んで、いまでは片言で話ができる。とはいえ何も話さないことのほうが多い。話すのはこの土地の自然や気候といったことばかりだ。話さねばならないことは、稼ぎも食べもしないかれにとっては少ない。またただの旅客である僕にとっても。


-



 

 

 

 

ndex
past  next

Mail
エンピツ