終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年06月02日(金)

「わたしに躓かないものは幸いである」――マタイ福音書より

 上記のことばを思い出したのは「ユダの福音書を追って」なるノンフィクションを読んだからである。結論からいうと、面白くなかった。面白いと思ったのはほんの十数ページの最後の章、つまり「ユダの福音書」について、もったいぶってちょろっとだけ情報が出されたその部分だけだ。まあ、もっともその部分が読みたくて買ったからなんだけど。
 それで、上記の言葉である。こいつァ、イエスさまがことあるごとに弟子に言い聞かせる言葉であって、ほかの全ての逸話がニセモノだったとしてもこれだけは本当だろうと昔から思っていたセリフだ。イエスもしくはキリストに躓かないでいることは難しい。フツーに思想や教養や哲学をたどれば、どの道をたどっても彼に出会う。これは断言してもいい。西洋文物にちょっとでも触れれば、オマージュにしろパロディにしろ下敷きにしろ、彼に突き当たらずにはいられないし、明治以降の日本についてもそうだ。
 そして「つまづき」についていうなら、たいていの人間は、イエスさまに突き当たれば、この思想史上の大本締めについて考えざるをえない。ルイスが著作の中でいみじくも語っているように、「キリストとキリスト教について何の意見も持たずにいるということはできない」のだから。これは信仰とは別に問題である。そして考えれば考えるほど、つまづきは度を深める。これはおそらくキェルケゴールが言うように、キリスト教的人間となりうる契機ともいえるアクシデントである。しかし今は信仰には触れない。
 「ユダの福音書」をチラ見せされて、思ったのは、歴史上やっぱりおよそキリスト教にかかわった全ての人間がイエスにつまづいたということだ。これは今流行のナグハムディ文書とも関わっている。べつにマグダラのマリアがイエスの女房だっていいのである。ユダがイエスの真の弟子であったっていいのである。重要なのは実に多くのひとがこの歴史上存在したとされる(もしくは実在した)一人の人物に仮託して己が思想を語り、かつ己が信念を語ったということだ。
 仮託といった。仮託であろう。実のところ、もしいわゆる聖書に真実が含まれているとして、冒頭の一語以上ではないだろうと私は考えている。あとは思想と信仰だ。結局のところ、人々は彼イエスに仮託するよりほかなかった。それは広く伝達するためではなく、ましてや真実らしくするためでもなく、ただ彼らがイエスという人物につまづいていたからである。考えてもみてほしい。イエスという人物が仮定(もしくは実在)しなかったら、我らの世紀はよほど様相を変えていたに違いないのだ。
 にしても、イエスはなぜ冒頭の言葉を告げたのだろうか。もし躓かずにすんだなら、人はいったいどこへ行けるというのだろう。まさかグノーシスの天国だとはいうまいが。彼方を指す人をではなく、指し示される彼方をこそ。





  バニ・キラブの子ら問うて云う、
  かの魔狼は何に似たるか、我らかの魔狼と相知るときいかに言うべきと
  わが答えはかくのごとし
 
かれ漆黒なること新月の夜に似て、その眼は磨ける槍の切っ先
王者の天幕のごとく姿大にして、耳聡きシマウのごとく耳聡し
身ごなし速きは翼ある鳥の速さに勝り、その優美は純血の若駒の優美に優る
後に曳けるは勇気と寛容と果断の徳、すなわち三つの豊かの尾ぞ
 
かれシャッダードの子ザカリーの友なりき
歌は伝う、かれら共に行きて北の方ハラブに至り、南はヒンドの海を見たり
かの時にあたりて東西の諸族はバニ・キラブを重んず
栄耀の日々尽きてザカリーは斃れたれど、なお神は誉むべきかな
 
かれ砂つ原を疾駆しては星々のうちの飛び去る帚星
友と集いては雨運ぶ東風、敵に向かいては立つものすべてを枯らし殺す熱風なり
いで子らよ、かくのごとき友あること誇るべし、またかくのごとき友情に相応うべし
見えずともかれ常にわれらが傍らにありて、われらがため進んで血を流せり
 
しかしていつの日にか、いつの日にか氏族の子のかれに見えんことしあらば
無限の敬意と親しみと心よりなる喜びもて呼びかけるべし
汝シェイド、我が挨拶を嘉したまえかし
我らが父祖ザカリーの名にかけて、歌に語りしマジュヌンの名にかけて
バニ・キラブは永遠に変わらぬ御身が友なればなり、とぞ


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