- 2006年06月01日(木) 遙かな霧のイリデスセンス 文学がどうにも「かたわ」だと思ったのには理由がある。それでは汲めないもの、それでは理解の枠組みに入ってこないものがあまりにも多かった。むしろそれは分析と解明を待つなにかであって、そこに黙然と横たわっているように見えたのだ。そうだ、美しい女の裸体のごとく輝きながら。 文学は、いわば盲目の力である。それは強力で人を揺り動かす力を持つ。それはときに危険でさえある。だが正しいアプローチをもってすれば、その真髄に至ることができる。誤解しないでほしい、私が望んでいるのは理解であって解剖ではない。深い理解によって文学はいっそう輝きを放つ。 さて、日本人画家によりイタリア人画家作品の盗作がいわれている。テレビで見たかぎりでは構図は類似というよりはむしろ同一であった。しかしここで根底に還って考えてみようではないか、盗作とはなにか。 西洋文物の根底は聖書にある。美術書をめくれば、ほぼ同一構図の聖母子像、昇天図、受胎告知の絵を見いだすことができるだろう、それもひきもきらず。これはすべて盗作か? 違う、ここにはじつに細かな規範があって、その上に狭くだが豊かな自由がある。つまり、決まっているのだ。聖母の衣の色がどうあらねばならぬか、キリストがどういう拷問具にかからねばならないか、その頭には何が置かれていなければならないかが。そんなとこでは断じて独創性を発揮してはならなかったのだ。 では、画家とはただのペインターであったろうか? そうではない。そんなことは求められなかった。ときにペテロは依頼主の顔であったし、ときに幼いイエスは依頼主の幼い息子であった。そこには「具物」は確かに欠かされなかったが、だが本質は常に現実と画家の思いに根ざしていた。厳しく委細を定められた形の中に、描く者の血肉が宿っていたのである。 文章であってもその原理は変わらない。たとえば指輪物語において西方の人が「ドュナダン」とされたとき、ケルトをわずかでも知る人はそこに「トゥハ・デ・ダナン」すなわちダーナ神族の名を聞き取るだろう。あらゆる物語は原型を持ち、要素と類型に分割しうる。そして感情も行為もそれ自体、人類のレパートリにあるものだ。 ここで再び問う、盗作とは何か。私はいつもその答えをわかった試しがない。あの日本人画家も、自らの絵の横にイタリア人画家の絵を置けば良かったのである。そうすれば最初から、くだらぬ疑念など招くことなく、自らの意図するところ、類似と相違のうちの血肉を知らせることができたのに。独創性が語ることがわずかなのに対し、相違や類似やまたあらゆる種類のオマージュはその基底に別の存在を持つがゆえに二倍も豊かなのだ。 「太陽の下に新しきものなし」――コヘレトの言葉 -
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