終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年05月14日(日)

わたしは自分をある種の自閉症だと思っている。

おおむねこの種の病は生まれたときからのもので、
成長するにつれて改善されるというが、私の場合は逆だ。
私の感情は最初、健全な発達過程にあったが、その後、頭打ちになった。
ある種の思案、感情は、結局わたしの身に付きそうもない。

そういった症状は、たぶんそれほど珍しいものではない。

十全の発達はけして「あたりまえ」のことではないのだろう。
人間が欠陥を抱かねばならないというのはなぜなのか。
ここにひとつ、興味深い生存の法則がある。こういうことだ。

自然は一定以上を求めるが完全は求めない。

私に理解できる感情は力強く明瞭なものに限られる。
そしてまたそれらを超えるものは自発的に私に発することがない。
これは非常な特質らしく、愛されるのも憎まれるのもそのゆえだ。
しかしそんなことはどうでもいい、というのが、
愛され憎まれるそのおなじ心のいうことなのだから始末が悪い。



『ヨブへのこたえ』(ユング著、みすず書房)

どう理解すべきだろう。
神の概念(原型)の発達というものについての考察なんだろうなあ。

ヨブの神、イエスの神。

善悪の裁き手と崇められながらまだ自然神の獰猛な混沌を備える神。
やがて有史以前の邪悪は分離され追放され、理性を身に帯びる神。
人間に受肉し、そのことによって論理と感情と善悪を備え、愛に満ちる神。

受肉する神。なるほど受肉によって神も人となる。
人の本来に従い、人に了解可能な正義と悪を識り、
そしてまた人に普遍である愛情と哀れみを識り、
かくして真に正義の神となりたもう。
その十字架の上であがなわれるのは人の原罪ではない。
かつての混沌の神の暗い顔だ。そうユングはいう。

なるほどそれはそうかもしれない。
人に想起する神はそのように変遷する。
では問う。神はいずこにありや。

答えはきまっている、見るものの目のうちにある。
ユングはそう答えるだろう。そもそもそれが前提だ。


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