- 2006年05月09日(火) 鼻先に突きつけられた鋭い刃を見つめていた目を閉じた。なによりそれは抵抗のしようもなかったからだし、もうひとつには、無抵抗の相手を前に兄がどう出るのか知りたかったからだ。それはひどく危険な試みであるには違いなかったが、同時に背中がゾクリとするほど興味深い考えだった。 だが一秒が過ぎた。それから二秒、三秒……十秒が。長くはない。だが短くもない時間だった。少なくとも、こうした場面にあってはそうだ。たまらずククールは目を開く。すると、刃はまだ鼻先にあって、わずかも揺らいだ気配もなく、その向こうの緑の瞳も、こちらの思惑など見透かしたように微動だにしていない。 「それでどうする、騎士団員ククール」 ぞっとするほど冷たい問いに、ククールは腹の底から震えが這い上がるのを感じた。だが伊達に不良騎士をやっているわけでもない。刃と腕一本の距離の向こう、緑の目を見てククールは笑った。なに、自分の悪事はドニの酒場で一杯酒を引っ掛けただけのこと。度を越した仕置きをすれば、それは騎士団長の不名誉となろう。 「――どうとでも」 吐き捨てた言葉はもちろん挑発だった。そして確かにそのように受け取られたのだ。ヒュッという鋭い音とともに鼻先から刃が消え去ったかと思うと、代わりに、みぞおちに強烈な一発を食った。そうだ、息もできないほど。まだ内臓に拳をめりこませたまま、間近に立つ兄が笑う、その微笑の気配にククールは顔を歪めて崩れ落ちた。 「いいざまだ、おまえにはそうして地べたを這うのが似合っている」 息を吸うことも吐くこともできずに、敷石の上で身体を二つに折ってのたうちながら、ククールは痙攣するような苦痛の声を漏らした。酸い胃液が喉にこみあげ、ひりひりと唇の端をつたい落ちてゆく。仰ぎ見た顔は石のように無慈悲だ。感情という感情は掃き清められたよう跡形もなく、だがその緑の目の奥にはせき止められたぎらつく怒りがのぞいている。 「あんた、は、……俺が嫌いだ」 苦しい息の中から呟いた。マルェロは微動だにしない。 「あんたは俺が嫌いだ!」 汚れた敷石の上に這い、ククールは叫んだ。むろんそれはわかりきったこと、とうに知っていたことにすぎない。だからククールはいぶかしみさえした。なぜ胸が痛み、目元が熱く、頬が濡れてゆくのかと。 「泣いているのか」 ぼやけた視界の向こうから、思わぬほど静かな声音が降ってきた。 「おまえは泣いているのか、ククール?」 わずかに風が動き、ククールははっと体をこわばらせた。だがおそれていた殴打はなく、ただ濡れて定かならぬ視界に、兄がおそらくは膝を屈めてこちらをのぞきこんでいると知れたばかり。 「私がおまえを嫌っているということが、そんなに辛いというのか?」 あまりに穏やで当惑の気配をさえ含んで放たれた問いには、応じるべき言葉さえ見つからない。それはどういう意味だ、それは、と声もなく問い返すだけだ。そうしているうちに再び風は起きて、気づけばもうそこには誰もない。急いで瞬きして辺りを見回しても、暗い夜の中にはなにひとつ見つけることはできない。ククールは呆然としてうずくまっていた。 -
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