- 2006年05月02日(火) そしてピラトは両手を洗い、 マタイ福音書によれば、総督ピラトは群衆に押され、やむなくイエスを有罪とする前に両手を水で洗っている。これは要するに、一言でいうならば、『わたしはこのことについて責任はない』というゼスチュアである。 そのせいであろうか、イエスの死についてピラトに責任ありとする議論は、この二千年紀を通じてほとんどみられなかったといっていい。イエスの死の責はユダヤの民衆にあるいはより多くイスカリオテのユダに帰されてきた。もちろん精神的にはキリストの犠牲とは人類の罪をあがなうためのものとされたのであって、高尚な説教の席ではそのように説かれてきたのであるが。 しかしながら、ピラトのこの行為はどうだろう。両手を清めるというこの行為は、どうもアレだ、きわめて暗い行為ではないか。彼がそのようにしてイエスの生死から手を引いたことは、より深い罪悪を暗示していないか。 死海文書の一部、「ユダの福音書」を解読してみたら、ユダの行為は裏切りではなく、教えの真髄を理解しているユダに対して、イエスが自ら行うように依頼した行為であるとかかれていたという。 もとよりグノーシスの一派にそうした考え方があったとして少しもおかしくないし、この福音書だってイエスの死語それなりに時間もたって書かれているわけだから、史実とすることはできない。史実などというものはイエスとユダだけがおそらく知っていることであって、しかもある意味、実際はどうだったかなんて、どうでもいいことだったりすることもある。 重要なのは「どのように信じられてきたか」また「なぜそのように信じられてきたのか」という点であろう。十分に長いスパンでみれば、政治的力学などというものはなんでもない。人間の傾向だけが問題なのだ。 それで、ピラトだ。彼が手を洗わざるをえないのは、彼が「何が正しいか」をまさしく知っているということであり、それでも手を洗うのは「何をせねばならないか」を知っているからである。自らの意志に反して悪をなすものの苦限がここにあり、しかもそれが問題にされてこなかった。 多分、このようにして多くの悪はなされる。ピラトは自らの知る正義を果たすことも殉じることもできず、しかもそれを忘却することもできない。彼が神聖さというものを自分の身に引き受けようとしないからである。だが、そうした『手を洗う』行為こそが邪悪そのものではないのだろうか。 神の目のもとにあるという意識、ひいては神の存在を信じることが、たぶん人間を本当に自立させるのではないのだろうか。パワーゲームより以上の行動原理を信じること、この世の外を信じることが。もっともそれは極めて西洋的、つまりキリスト教的な意味においての自立にすぎないのであるが。 -
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