終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年04月23日(日)

たとえば、オットセイの子供を


 例えば、オオカモメの鳴き交わす北の小島から、一匹のオットセイの仔をさらってきて育てたとする。雌犬に育てさせてもいい。同じほ乳類だし、小さい間はそれほど外見も変わらないからちょうどいいだろう。
 その仔はもしかしたら死ぬかもしれないが、もしかしたら育つかもしれない。すっかり大きくなって、仲間の犬と遊ぶかも知れない、人にも馴れるかもしれない。幸福のうちに伴侶を得て、年月を重ね老年に達するかもしれない。

 しかし彼は、心の奥底で海を求めるだろう。空に響く海鳥の声を望むだろう。胸のうちに満たされぬ本質的な渇望を抱えるだろう。もし語りうるとすれば、それこそ人のごとく語りうるとすれば、憧れを歌うだろう。見知らぬ海への。その名さえ知らぬまま、その色や形さえ知らぬまま。その憧れは魂の本源、血の奥底からあふれ、歌は真摯に聴くものの胸を打つだろう。痛ましくも惨く。


 わたしはさらわれたオットセイの子供を知る。その眼差しを知る。
 これはむろん、比喩だ。比喩にすぎない。
 だがその声を聞くことさえできる。彼は言う。私の海はどこにあるのか。
 私はひとつの小川である、流れ注ぐべき海はどこにあるのか。


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