- 2006年04月14日(金) ティル・ナ・ノグ: 王は玉座から立ち上がり、大臣に微笑を向けた。 「では私はこれで、無罪放免かね?」 巻いた羊皮紙を取り集めていた大臣は、丸っこい体を揺すって笑った。 「お疲れ様でございました。しかしこれでトラペッタのご領主も肩をなで下ろすでしょう」 「天災は天の下すもの、苦しむ民を助けるのに躊躇はするまいよ。のう?」 「正道でございましょう」 「さて、私は庭を歩いてこよう」 「春の宵ですな。お胸を広くなされませ」 毛足の長い絨毯を踏み、長い衣の裾を引いて、王は広間を横切って行った。長い執務に背や肩はやや強ばっていたが、一日を終えた足取りは軽やかだ。衛士の開いた扉を通って、王は庭園に出た。とたんに吹き付けた夜の風は豊かに、また心地よく王の髪をさらい、先に亡くなった母の白女王に似ていると人々の言う端正な顔立ちの中の唇で笑む。 玉座に上ってもう、四半世紀が過ぎていた。黒髪には白髪が交じり、青春は老年に場所を譲りつつある。善をなそうとし、またそのように努めてきた。その努力が実ってか、あるいは天がそのように巡ったのか、国はおさまり、世に勢力をなしている。迎えた妻は世継ぎの姫と王子をなして、そのいずれもすくすくと育っている。それでも心にわずかな隙間はあった。 これは、と、王は自らに声なく問う。これは、こうした小さな悲しみは、誰にでもあるものだろう。それは複雑で豊かな心という殿堂のうちの一つの小部屋にすぎず、いかなる悲しみや苦しみの原因となることもないであろう。だがこの虚ろがうまることもまたないに違いない。それは失った母への追憶であり・・・ 「元気そうだね、陛下」 王ははっとして顔を上げた。夜の庭の噴水の傍らに立っているのは息子ほどの年の小柄な少年だ。黒い髪と黒い目と、見慣れたバンダナと。王はかすかに震え、その目は涙に潤むかと見えた。だが、すぐに。 「お元気そうでなによりです、父上。ようこそお帰りになられました」 父親と呼ばれた少年は笑って、王に歩み寄った。背丈では、王の肩ほど。顔立ちは若々しく、動作は俊敏。だが微笑を浮かべた目の奥には、見かけとはそぐわぬ年月が眠っていると知れた。 「小さなお姫さまと王子さまは元気かな? お嫁さんは?」 「みな、変わりありませんよ。ですが、子供らはもうそれほど小さくはなくなりました、二人とも。娘はもう、十五です。母上とよく似てきました。おてんばで」 声を上げてトロデーンの前王エイト、英雄王とあだなされる歳月を重ねた少年は笑った。その笑いにもかかわらず、むしろその笑いのゆえに、王は、父親のうちにある深い寂しさと虚ろを知った。それこそまさに、エイトを故地トロデーンから追い、また長くはとどまらせぬものであった。竜の血はエイトから歳月を奪い、それ以上に愛する妻とともに老いて去りゆく権利を奪った。だが王もまたほほえんで、問う。 「あれは、どうですか。まだ戻る気にはなりませんか」 エイトは笑いを引っ込めて、少年の仕草そのままに頭を掻いた。無言の肯いを見て王は嘆息する。 「たまには戻るように父上から言ってやってください。たまには兄の、私のことも考えるようにと」 「考えているのだよ」 王は父の手が肩に置かれるのを知った。見える横顔はやはり悲しげだ。 「あれは考えているのだよ、おまえのことも、おまえの妻や子供たちのことも。愛しているのだよ。そうだ、僕たちは昔から仲のいい家族だったのだから。ただね、あの子は少し…」 王は天を見上げる。星々はめぐっている。物心ついたときから空はそのようだった。そしてこれより先も。 「あの子は怖いのだよ。おまえと会えば、どうしたって、おまえといつか永遠に別れねばならないと思い知らされるから」 「わかっております。でもだからこそ、父上。会えるうちに会ってくれなくてはというのも道理でございましょう」 やさしい手がまた肩をぽんぽんと叩いていく。王は空を見上げたままでいる。去ってゆく父親を見送るのは、悲しい。 「愛しているよ。僕も、ミーティアも、あの子も、みんなして、おまえを愛しているよ。幸せだね?」 「ええ、父上。幸せです。幸せです。私も愛しています。愛しています…父上、どうか」 「また来る、また来るとも。今度はあの子も連れてくる。だから、そんな顔をしないで」 声はやさしく、穏やかで、そして遠くなる。遠くなってゆく。王は目を閉じてきつく眉を寄せた。行かないでとは、ついに口に出せなかった。なぜなら父を、弟をおいてやがて永遠に去るのは自分の方だからだ。そのとき、どんなに泣くだろう、父は。あの弟は。小さな弟は。幼いころは城の裏手の畑で、おっかけっこをしたものだった。夕暮れ、政務を終えた父と母が迎えに来る時にはもう二人とも泥だらけで。長い日差しのなかを駆けて、駆けて。抱きしめる腕の暖かさと。 「父上!」 声は夜に吸われた。そこにはもう誰もいない。王は黙って立ちつくした。西方の光はもはやない。過ぎ去った幸福と歳月は呼び返しようもなかった。だが、今には今の幸福と責務がある。だからそれは王の心の宮居のうちの一つの部屋にすぎず、海の果ての彼方の幻の国へのあこがれのごときものにすぎず。 エコー: 花盛りの庭にエイトは立っている。そこはトロデーンの王城からさほど遠くない荒れ果てた古い館の庭で、もう長いあいだ手入れもされていないのに、アーチにまた崩れかけた石壁に這うつるバラは色とりどり数多の花を飾り、足下には矢車草に風露草、ルピナスは光輝く塔のごとくに咲いている。 エイトはゆっくりと足を運んだ。往時の小道は花に草に埋もれている。気ままなスミレやジャスミンが香り立ち、淡い色のスイートピーがふいの風に群れ立ち、揺れ騒ぐ。音もなく声もなく、胸痛ませる美であった。 エイトはわずかに頭を傾げ、微笑した。そこはかつて白い女王ミーティアの箱庭であった。老いた女王は息子に玉座を譲って、老いることのない夫とともにそこに住んだ。年ごとに花はいよいよ見事に咲き、二人は手に手をとって庭を歩んだ。たがいの時の流れが異なることは、この二人の愛情にはなんらも関わりなく、だがミーティアはいつかの春を最後に世を去った。 そうだ、ミーティアは世を去った。だがそれは本当だろうかとエイトは問い返す。住むひともなくなった館は荒れ果てて、庭は秩序を失って狂い咲いていても。ここにあの白いやさしい女王がいなくても、それでもそれは疑わずにはいられないことなのだ。だって、まだこの胸に愛は少しも衰えていない。それに、すべての記憶は手を伸ばせば触れられるほどに鮮明だ。 ある霧の朝、まだ幼かった王女の手を取って歩いたこと。初めて受け取った秘密の手紙を封切るときに感じた胸苦しさ。婚礼の日の鐘の音色と、祝福と、見交わした目の中にあふれんばかりであった情愛の光と、くちづけの清さ。ともに過ごしたながの年月。初めての子の生まれる夜を照らしていた松明の不安な苦しい揺らめき、この腕に抱いた赤ん坊の温もり、眠る妻の美しい横顔。日ごと夜ごとにに大きくなっていった子供たち、忙しい国務とインクの臭い。トロデ王の葬儀の最中、泣き崩れた妻を抱きしめた腕に感じた震え。ああすべての、夕暮れの一つひとつ、夜明けの一つひとつ。 エイトは静かにあたりを見回す。どうしてミーティアが逝ってしまったはずがあるだろう? まだ彼がここにいるのに。多分あの美しい王女は、持ち前のいたずらっ気で、どこかに隠れているのだ。呼べば笑いながら現れるはず。駆け寄ってあの細い腕で抱きついてくるはず。そうとも、どうしてそうでないはずがあるだろう? これほど彼女の気配は身近だ。 「花が咲いているよ。ごらん、きみの好きなバラがこんなに咲いているよ」 暖かな風が吹いた。エイトは微笑する。そこにミーティアの影を見たように思ったからだ。そこに。新雪にも似た純白のバラの花影に。 「隠れていないで。出ておいで」 だがエイトは開きかけた口からその名を呼ばなかった。ミーティアは逝ってしまった。口を閉ざして黙し、悲しくあたりを見回した。花々はこれほど咲いているのに、バラはこれほど香っているのに、ミーティアはもはやいないのだ。ともに歩くこともなく、その美しさを語り合い、わかちあうこともないのだ。小さな花を摘んでその黒髪にさしてやることもない、その返礼に暖かい口づけが与えられることも。すべての記憶は明らかなのに。 ここにあるのは過去のむなしいエコー、こだまばかり。心臓を締め付ける苦しみに、エイトは強く胸を押さえた。鋭い悲嘆は臓腑を貫き、目からは涙があふれ出た。それは頬を伝い、顎を濡らした。 追加してみた。エイトがブームかもしらん。 うちの微妙設定はエイトとミーティアは超ラブラブ夫婦です。 間には双子の息子がいて、兄は人間、弟は竜の血が濃い。 そんなかんじかな。 -
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