- 2006年04月12日(水) 上三川リンチ殺害事件 平成13年に起きたこの事件についての民事裁判の判決が言い渡された。 内容は警察が職務怠慢によって事件を看過したと認めるもので、 かなり画期的であり、原告である被害者の父親には喜ばしいだろう。 この事件について詳細を述べることはできない。 その凄惨さは女子高生コンクリ殺人事件にも比すべきであり、 裁判はおよそ平常心で傍聴できるものではなかった。 心理学的な面で問われるのはいくつかのことだ。 加害者たちはなぜ、ああしたことが「できた」のか。 誰かを傷つけることは、それを行った当人にもかえる行為である。 戦場で敵を殺した兵士たちのPTSDを思えばわかりやすい。 人ひとり、拷問に等しい行為の果てに殺害すること。 これをその事実の重さに等しい強烈な心的事象として加害者が体験し、 なおかつああした振る舞いができるなら、それは恐るべきことだ。 だから結論としてはこうしたことになる。 加害者らはその事実を、過小に評価し、また実行した。 簡単に言うならこういうことだ、彼らは気軽に殺した。 そうしたことは可能だし、しかもよくあることだ。 なにより加害者らは複数であり、「反逆せる」若年者であった。 かれらにとって仲間内の評価はおよそすべてであった。 ならば彼らの行為はエスカレートする。仲間に負けまいとして。 行為のむごさでも、それによって証明される自らのタフさでも。 しかしそれを受け止めねばならぬ家族には、そうした方便はない。 彼らは息子をなくした両親というそのままに悲しむより他にない。 しかもただなくしただけでない、非道な犯罪と拷問の果てに殺された。 その苦しみを、絶望を、両親は執拗なほどに追体験せずにはおれない。 なぜならそれは彼らの息子が受けた暴虐であるからだ。 彼らが息子を案じていたそのときに息子が味わっていたものだからだ。 「代われるものなら代わってやりたかった」愛するものはかくも、 かくも逃げ道がない。思いはその道に立ち止まって歩き出さない。 この判決について、初めに、「父親には喜ばしい」と書いた。 そうだ、父親はたった一人だ。妻はもう逝ってしまったのだから。 苦しみの総和は彼の肩にある。この荷は下ろすことができない。 だからこそ祈らずにはおれない。犯罪が撲滅されることを。 そしてまた厳しい指摘を受けた県警が、再び過ちを繰り返さぬことを。 須藤正和さんの冥福をお祈りします。 -
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