- 2006年03月11日(土) 城館には、表門から館の大扉をつなぐ続くきわめて長い石段のほかにも幾つもの急峻な階段があった。それはいささか太った中年の貴族であるあなたには幾分か辛いものだったが、しかし、美貌で陽気な遊び仲間のご婦人がたがそこに滞在を決めた以上、その騎士を自任するあなたもまたそこに留まらざるをえないのだった。 髪粉をつけた見事な白いかつらを直し、あなたはふうふう言いながら階段を上っていく。ずっと上の広間からは誰が歌っているのか、美しい歌声がかすかに漏れてきて、あなたはときおり足を止めては汗を拭きつつ聞き入った。しかしその歌も、三つばかり曲がりくねった段を数え終えてようやく上階にたどりついたときにはもう終っていて、あなたは残念な思いで人気のない暗い広間の豪奢なカウチに座り込んだ。 「ムシュー、そんなところにいらしたの」 ずいぶん遠くの扉が開いて、その向こうから白い光が長く射した。浮かぶ影は、どうやら婦人がたのうちでもとりわけあなたを気に入っている、つまりはその鼻面をやたらに引き回したがるカトリーヌ姫とみえた。 「だめよ、すぐにこちらにいらしてちょうだい。カード遊びをしますのよ」 こうなれば仕方がない。あなたはまだ収まらない息を吐き、広い床を横切いて、巻いた髪に花を飾った姫に近づいていった。 「やれ、人殺しの階段のおかげで、えらいめにあいましたわい」 「早くいらして。のろまさんだったら」 「歌も聴きそこねて。どなたが歌ってらしたので?」 「いやな方、みなが退屈してたというのに、そんなことおっしゃって」 「はて、そう申しますと?」 「イレーヌが喉を痛めていますのよ。私やユリーアが一生懸命なぐさめて、アキテーヌ男爵が氷水を取り寄せてくださったり、手を尽くしているのに、歌なんてことを言って。ひどい方、悪い方だわ」 あなたはどぎまぎしながら謝り、カトリーヌ姫はつんとしながらも鷹揚に腕を取ることを許した。あなたがた二人はカード遊びに加わり、ルイ金貨三枚ばかりすった。いつものことであったし、あなたは気にしなかった。だが判然としない思いは残った。 歌はそれから折々にあなたの耳に聞こえるようになった。それはえもいわれぬ美しさであなたを恍惚に誘い、だが近づけばいつも消えうせた。不思議なことに仲間のいるときにはけっして聞こえてこないのだった。例えば明け方の夢、月影の見せる妖精の輪のようにあえかで憧れを誘った。同時に遠い昔に聞いたことがあるとでもいうような、奇妙な既視感をもかきたてて。 しばらくは夜半に歌声の源を求めて、燭台を掲げて城館をさまよったり、古くからいる執事を捕まえていわれを聞き出そうともしてみたあなただったが、やがて諦めた。仲間に冗談半分話して面白がらせ、何度か謎の歌い手を求める勇ましいが滑稽な探索を行なったこともあった。しかし探索は不首尾に終り、仲間もその冗談に飽きて新奇な方向に関心は移った。あなたもまた、不思議な思いは消えないままに、元のように仲間たちのカード遊びやカトリーヌ姫の詩歌の朗読につきあいに戻っていったのだ。 ある朝のことだった。夜明けまで酒宴に連なっていたあなたは、眠る前に一杯の水を求めようと寝室を出て階下への階段を下りた。広間の床を踏んだとき不思議な明るさを目にした。しょぼつく目を細めて見ると、広間の向こうの扉が開いており、そこから真昼のような光がもれているのが見えた。 そこには誰かが立っているようだった。あなたは目をこらし、それが仲間たちの誰でもないことを見て取った。館の召使の誰かでもない。腰布だけを巻き奇妙なほどに細長い体をほとんどあらわにした老人のような顔つきの男で、ローマの古い神殿でぽっかりと口をあけている巨人とよく似た顔だ。 それと認め、だが一言も発せずにいると、巨人は、これも奇妙なほどに細長くのびた扉の向こうに歩み去り、同時に扉は閉じて、光は失せた。 そのときだ。あの歌声が、今度はこれまでになかったほど近く、はっきりと聞こえてきた。そうだ、階段のすぐ下の方からだ。あなたはもう何も考えず、一段飛ばしに駆け下り始めた。踊り場を一つすぎ、二つすぎ、歌声はいよいよ近く美しく耳を打ち、どこで聞いたものかさえ思い出せそうだ。 「どこへ行かれますの」 三つ目の踊り場で激しく腕を捕まれた。焦る思いのまま見下ろせば、とりついているのはガウン姿のカトリーヌ姫で、その美しい眉は不安にひそめられている。その腕を振り解こうとしながらあなたはわめいた。 「離してくだされ、姫。わしは行かねば」 「どこにですの。そんなに息せききって」 「歌ですのじゃ。すぐ近くに」 「あれはみんなを面白がらせた冗談ではございませんか」 「行かせてくだされ、行かせて」 「だめよ、だめ。だめですわ。そんな物に憑かれたようなお目をなさって。わたくし、今しがた、あなたの求婚をお受けしようと考えていたところですのよ。素敵でしょう。さあ、お聞きになって」 「ああ、姫。すべては後、後ですじゃ。わしは行きます」 カトリーヌ姫のやさしい腕を退けて、あなたは走り始めた。後ろからはまだ、涙ながらに呼び止める声が聞こえていたが、あなたは一心に走った。 暗い危険な階段を飛ぶように下り、下り。あなたはそうしながら思い出した。この歌声、この甘やかな歌声はゆりかごで聴いたのだ。あなたはまざまざと思い出す。ゆりかごのへりには白い鳩が止まり、真っ白い羽を光に透かしていた。それともそれは天使だったのか、青ざめて翼を閉じた。まだ生まれて三カ月にならぬあなたは、光に透けた白い羽根を、生涯最初の驚きをもって見つめたものだ。 美しく、抗いがたく、懐かしく。あなたは走りながら叫んだ。かつてない幸福が心の奥底からこみあげてきた。大扉を押し開くと、あなたは階段を下っていった。 それからしばらくして、カトリーヌ姫に起こされたあなたの仲間たちは、階段の中ほどで首の骨を折って倒れているあなたを見出した。その顔には穏やかな喜びがあった。 今朝方、見た夢だ。美しいアリアはまだ私の耳に残っている。 終りにあたって以下の言葉をのせたい。 「病と死と狂気は、私のゆりかごを守り、 それ以後もずっと私の人生に寄り添ってきた天使たちである」 エドヴァルト・ムンクの日記より -
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