終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年03月01日(水)

またしても一日分のわりあて語数オーバーにつき、仕事中のメモなど。


 彼女は人形作りを仕事とは呼ばない。話をしていても茶を飲んでいても、ただ席を立って工房に行き、黙って作業を始める。そうなるともう振り返りもせず呼びかけにも答えない。彼女はそれについて話さず、ただ行うのだ。
 だがまた彼女は、人形作りが芸術だと考えてもいなかっただろう。事実、作品はいずれも無個性な美しさ、彼女自身の意思や思想を含まない誰のものでもない美でしかなかった。毒でないものは薬にもならないものだ。
 私はいつのころからか、思うようになった。つまり彼女は、自分が宿りたかった理想の器、夢の美を陶土から作っているのだ。

 私は人形というものを身近に置きはしなかった。ぬいぐるみの類を置いたこともない。私の部屋に存在していいのは、すべて非人間であることが判然としたものだけだった。やむをえない事情により、私自身を除いては。
 その理由については、こういう事実を挙げることができるだろう。つまり私は引越しを繰り返した幼年期に、人形やそれに類するものを所有することを許されなかったと。そして子供として学ばなかった習慣を、大人になってから得ることは困難なのだ。私は人形とお近づきになったことがない。彼女を介して辛うじて知りあっただけだ。

 さて、それでは人形の話を始めよう。人形は動く。これは自動人形に限らない。対立項としては彫刻を与えることができるだろう。彫刻は動かない。これはどういうことか。彫刻は一定のポーズと表情を得る。それは絵画に似ている。一つの雰囲気、一つの所作の中に永遠に留まっている。彫刻はいわば、物語の「そのとき」「その場所」に生きているのだ。
 一方、人形は動き、そのことによって作られた物語や所作の枠には留まらない。人形は「いま」と「ここ」に属するものだ。人間と同じく。光はその上に刻々と影をうつし、朝や夕刻の光はその頬をばら色に染めるだろう。人形はポーズをとらない。人形は彫刻とは明らかに違うものなのだ。

 にもかかわらず、人形はあらゆる意味で、そうだ、一匹のアリほども「ここ」を過ぎっていくわけではない。一羽の鳥ほども「いま」を過ごしているわけではない。ここに、人形の奇妙なアンバランスさがある。
 人形は人間の形をとり、しかも彫刻ほども生気を帯びない。背景の中でポーズを取らされれば別だが、そのときそれは人形ではなく彫刻へとブレているといえよう。人形とは継続して在り、撮影の後に投げ出されるもの、取り外されて転がる青いガラスの目玉と木でできた顎だ。
 では人形とはなにか。彫刻でもなく生命体でもなく、継続して存在しながら投げ出された陶土でできた死体を思わせる、この人形とはなにか。人形作りの夢の結晶なのか? 人間の模型なのか? おそらくこの問いは無意味だだろう。多分、人形についてはこう問いかけることができるだけなのだ。


 人間はなぜ人形を作るのか、と。



関係ないが、映画『スキージャンプ ペア』が見たい!!


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