- 2006年02月27日(月) 『成功の甘き香り』: 教会の暗い塔を後に、細い雨の中をトゥインゴは進んでいく。運転席のククールも、助手席のマルチェロも何も言わない。ヘッドライトは茫漠と広がる闇の中に小さく光を灯している。木立を抜けて少し走ると、前方にモテルの看板が見えた。 「そこだ」 マルチェロの言葉にククールは返事をせず、ただハンドルを切って車を駐車場に乗り入れた。他に止まっている車は一台もない。水曜の夜だ。マルチェロはトゥインゴを降りて、古びた文字でINNと書かれた窓を叩いた。窓の中には狭い部屋があって、深夜番組を映すテレビがついている。しばらく待っても返答はなく、マルチェロは今度はもう少し強く窓を叩いた。 テレビの前の長いすから誰か起き上がる気配があって、やがて間の抜けた顔の男が寝起きの顔をして近づいてきた。のろのろと窓を開ける。 「部屋を」 短く告げると、返事もせずに料金表を示された。シングル二つ分の料金を財布から引き出したところで腕を捕まれた。つかんだのはいつの間にか近づいていた銀髪の少年だ。とうに気づいていたことだが、思いつめた色の目をしている。目だけで問うと、目だけで二人部屋の部屋の料金欄を示された。 マルチェロは何も言わず、必要な料金を鉛の皿に置いた。男はいきさつに気づいているのかいないのか、札をわしづかみにすると反応もなく数字のついた安っぽい札に下がった鍵を差し出した。受け取ったのはマルチェロだ。 鍵を開けると、あたためていない部屋の底冷えた空気が肌に触れた。一歩踏み込むか踏み込まないかのうちにマルチェロは唐突に肩のあたりをつかまれて、壁に押し付けられた。 「……ククール?」 顔を伏せたまま自分を拘束する少年に向かって、マルチェロは低く問いかける。灯りをつけない部屋は暗く、窓の外から漏れ入る照明の弱い光がわずかに青白い。雨の湿りは上着から、マルチェロの頬から、ククールの銀髪から匂い立った。 「好きなんだ」 声は泣いているようだ。マルチェロは何も言わない。間近の顔は持ち上げられて、ゆがんだ顔がぼんやり見える。泣いているのだ。外の明かりにおぼろに光って見えた頬の上の涙の跡に、言うべき言葉をマルチェロは忘れた。あの教会で、ニノの前で言った不用意な一言だけで、この少年はそこまで傷ついたのだ。高潮のように胸に満ちてきたのは奇妙な罪悪感と、同時にそれ以上の高揚感と。 「何度も言ったろ。でも、あんた、何も言ってくれない」 そうだ、何も言わなかった。だが何を言えるだろう。せめて手を伸ばして、濡れた頬を拭ってやろうと思う。だがその瞬間には、ククールの腕の中に囚われていた。押し殺した嗚咽は肩のあたりで聞こえる。 「ククール、聞け」 きつく抱きついてくる体に腕を回した。震えている。震えているのはそれとも自分なのかと、激しいめまいの中でマルチェロは自問する。この小旅行では何もかも思うようにいかない。冷静さも狡猾さも、別の服のポケットに忘れてきたとみえた。出かけるときに気づくべきだったのだ。だがもう遅い。 「聞いて、くれ」 息が乱れているのは私、震えているのも私だ、とマルチェロは知る。頷く気配はやはり肩のあたりにあって、喉には湿った長い髪がまといつく。だから震えるのはそのせいだ。 「女を抱いたことはある。男を抱いたことも、抱かれたことも、ある。女の扱い方なら知っている。男の扱い方なら知っている」 間近の顔が苦しげに歪んでいく。当惑と、苦痛に満ちて。今すぐ逃げ出してくれればいいとマルチェロは思う。だがそうはならず、だから続けねばならず。 「だが、愛したことはなかった。教えてくれ」 手を伸ばす。ああどうか逃げてしまってはくれないかとマルチェロは願う。そうならないことを切に祈りながら。語らねばならない思いに胸は急き、だが語ることですべてを失うのではないかと恐れながら。 「教えてくれ。どうすればいい。どう語り、どう触れればいい」 ぎこちなく顔を近づけ、口付けする。触れるだけだ。震えながら、触れるだけだ。それだけですべてを壊してしまいそうな感覚におびえながら。何に対しても怯えたことはなかったのに。恐れたこともなかったのに。死も死にすらすぎなかったのに。そう不敵に笑ってなんら省みることなどなかったのに。 「愛している。どうすればいい。どうすれば…」 言葉はそこで途切れた。熱い唇が重なってきたからだ。怯える唇を押しふさぎ、更に熱い舌が忍び入る。逃げることも応えることもままならず、マルチェロは目を閉じた。 ボルサリーノを古びた帽子掛けに置く。その手がまだ震えているのに気づいて、マルチェロは目を伏せた。少年のキスはあまりに一途すぎる。それが次の段階に移行する術を知らずにぎこちない終りを迎えただけに、なおさらだ。灯りを点した部屋は安っぽく、並んだ二つの寝台には粗い目のシーツをかぶされた毛布があるきりだ。 「マルチェロさん」 呼びかけられて振り返ると、ククールは寝台の上で枕を抱えてあぐらをかいている。手足をもてあますようなその姿勢はまるで子供のようだ。 「なんだ」 返答はない。おかしなやつだと思いながら、上着のボタンを外していると、背後に笑う気配があった。小さく肩をすくめて、少年の横に座り込む。 「なんだ」 同じ目線にあわされて、またククールが笑う。無言で求められるまま左手を伸ばして与えると、頬が寄せられた。甘えるような、甘やかすような仕草で。指先が柔らかい喉に触れる。その瞬間、ふいに、マルチェロはびくりと身をすくませた。一瞬のうちに脳裏を占めた想念は暗く、氷のように冷たい。そうだ、そのとき左手はいつも相手の喉を押さえていた。ナイフを握って頚動脈を掻き切るのは右手の仕事だからだ。そうだ、そうして幾人殺したことだろう。すべての記憶は瞬時に立ち上がる。この手は穢れている。 「マルチェロさん?」 マルチェロは答えず、危険なものを扱うように、ゆっくりと慎重に左手を引き戻した。握った手はひどく冷たい。刃物のようだ。その思いに耐えられず、素早く立ち上がる。 「どうかし…」 「どうもしない。もう寝ることだ」 マルチェロは灯りを消して、窓辺に立った。窓の外は暗く、雨は細く降り続いた。やがて東の空が白み、陰鬱な夜明けが古びたトゥインゴを照らし出すまで、マルチェロはそこに立っていた。その両手をだらりと垂らして。身じろぎもせず。 -------------------------------------- "Maybe I left my sense of humor in my other suit." 「どうやらユーモアのセンスを別の服に忘れてきたようだ。」 シドニー・ファルコ(トニー・カーティス)『成功の甘き香り』 フランス語で話す皇帝ペンギンたちに夢中です。 あの独特の音感がいいよなあ。色のパレットみたいだ。 そんで、受けでしょう、マルチェロ。なんにもしてないけど。 あ、してるか、小学生並だが…。 九割は思い込みでできています。残り一割は妄想と願望の混合物です。 -
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