- 2006年02月26日(日) 『荒馬と女』: 真夜中の司教館はひっそりと静かだ。その静寂は重厚な、緞帳めいたカーテンからくるものなのか、それとも毛足の長い花模様の絨毯や、白いレースめいたカバーをかけたソファからくるものなのか。 手早く用意された茶を飲むあいだ、いつになく無表情で黙りこくっていたククールは、先ほどニノが気を回して用意した客室に向かった。だからマルチェロは黙ってニノと差し向かいに二人きり、清潔で心地よくしつらえられた居間のテーブルに向かって座っていた。 信徒から贈られたものなのか、大きな楕円形のテーブルの上にはあふれるほどに薔薇を生けた花瓶が置かれている。暖炉には火が燃えて、正面に張られたガラス越しに心地よい熱が放たれている。住人が寝起きし、生まれ、育ち、老いてゆく、その呼吸が根を張る生きた家の気配だ。 「ここに住んでいるのか、ペール」 「主は別におる。偉い司教さまが。わしは寺男のようなものだな」 「あんたが?」 ニノが少し笑った。見たこともない笑いだとマルチェロは思う。五年前、この男はもっと冷たく笑った。その手には幾つも宝石をちりばめた悪趣味な指輪をはめて、これみよがしの贅沢と美食を好んでいた。人を人とも思わないのは暗黒街のルールだが、その中でもニノの貪欲は群を抜いていた。 それがこんなふうに笑っている。マルチェロは苦いような、奇妙なような思いを胸に重たく感じて磁器の茶碗を取った。 「街のことは聞かないのか。それとも知っているのか」 ニノは首を振る。どちらともつかない返答だ。マルチェロはいささか苛立ち、だがホルスターの銃は血に飢えて叫びはしなかった。そうするにはここはあまりに勝手が違いすぎるのだろうか。 「なぜ街を離れた」 「ふむ」 ニノは深く息をついて、マルチェロを見た。手の中には古いカップ。ひびが入っているのはそれが客用ではないからだろう。 「返答次第では、街の連中にわしのことを黙っておいてくれるかな?」 「ああ」 そしてニノは話し始めた。穏やかに、だが本当に大切なことを語る声だけが帯びる、質問を許さない、ある種の閉じた様子で。 サン・ペールに近く、やはり小さな村がある。リヨンから続く街道沿いのミオネー。そこにはこぢんまりとしたレストランがあって、知る人ぞ知る高名なシェフの店だ。『アラン・シャペル』、ミシュランの三ツ星に輝く店をニノが訪ねたのは五年と少し前のこと。 見事なフルコースの昼食を終えたあと、高名なシェフとの短い会話の中でサン・ペールの教会の話を聞いた。午後に訪れるなら、きっと素晴らしい夕日が見られるでしょうという言葉に従って、たった二人の護衛とともに訪れた教会で、一人の老人に会った。普段は見知らぬ相手と話などしないニノだが、その老人の不思議に威厳ありげな様子に思わず話し込んだ。 もとより身元など明かしはしなかった。老人もまた聞かなかった。だが日が暮れてゆくその風景の中で、不思議な思いにとらわれた。この教会は何百年も前から祈る人々を迎え入れ、送り出してきた。そのほとんどはもう死んでしまった。この教会はこれからもまだ何百年も立ち続け、多くの祈りが堂宇に満ちることだろう。だがまだそのほとんどが生まれていないだろう。 あたりまえのことだった。だがそれは奇妙にニノの心を打った。老人は、ふいに黙ったニノの肩に手を置いた。 「いつかまたこの家に来なさい。いつか、遅くならないうちに」 そのときニノは思い出した。もう遠い、遠い昔のことだ。小石ばかりの島の中腹、漆喰を塗っただけの貧しい家で、差し込む夕日に明るく髪を燃やした若い女が立っている。女は手をあわせ、一心に祈っている。ニノは小さな子供で、そのスカートの端をつかんで母親の横顔を見ていた。耳に蘇った低い祈りの言葉は、町に出稼ぎに行くために置いていく初児の無事な成長を、それだけを深く激しく願うもの。 帰還の長い道のりの中で、ニノはたびたび背後を振り返った。そこには大きな星がかかっていて、道しるべのように光っていた。 ニノはふと話をやめた。夜半の静寂は静かに落ちて、遠くのほうで雨が降っていることにマルチェロは気づいた。 「それだけか」 「そうじゃな。その日はわしは街に戻ったが、半月のうちに身の回りを整理して、またここに来た。老人は…司教さまはわしを迎えてくださった」 ふ、と、重たい嘆息がニノの胸から漏れた。それは独り言だったのか。マルチェロは黙って冷えた椀を置いた。 「今の話ではわからない。理由にはなっていない」 「だが、それが起きたことの全てじゃよ」 「あんたは街で、王様のように君臨していた。あんたもそれに満足していたはずだ。それが、母親のことを思い出した、それだけで? わからんな」 「わかるまいな」 ニノの言葉に、マルチェロは眉を寄せて顔を上げた。 「あんたは人殺しだ」 ニノの顔の上にさっと暗い影が走った。それはかつて顔役だったニノが最も不機嫌になった瞬間の表情の変化だ。そのあとは決まって陰鬱に笑い、上唇を舐めて、「生まれてきたことさえ後悔させてやろう」と言い放った、その粘っこい声音さえマルチェロはありありと思い出した。 だがニノはこのとき、笑いはしなかった。 「わしは人殺しだ」 低く呟くそのうめきは、突き刺されたようだ。だが以前、マルチェロがこの太った男と話していたときに感じたような、狂った豚を相手にしているような不気味な気色の悪さはなかった。何度となく思案の中で殺したはずだが、その殺し方も思い出せなかった。 「わしは人殺しだ。わしは遅すぎたのかもしれん」 鼻のあたりを拭い、ニノは立ち上がった。 「話はここまでとしよう、もう遅い。連れと一緒に上で寝てもいいし、起こして帰ってもいい。村はずれにはモテルもある。好きにするがいい」 マルチェロは黙って立ち上がった。この石造りの古い建物の中で眠る気にはならなかった。安っぽいモテルのプレハブの方がまだ休まるだろう。 「さよならだ、ペール」 「さよならか」 ニノが笑った。アデュー。再びはない別れの挨拶。オゥ・ルボアール、再会を約するのではなく。永遠の空白の約束。 「さよならだ。私はここで誰にも会わなかった。そうだろう?」 「感謝する、マルチェロ。だがわしはそうは言わずにおくぞ。何が起きるかわからんのが人生だからな。また会おう」 マルチェロはボルサリーノを頭にのせて、そのひさしの陰で微笑した。この場合に限り、ニノが正しいのではないかという気がしたからだ。 ------------------------------------------- “Just head for that big star straight on. The highway's under it. It'll take us right home.” 「あの大きな星の下に家に続く道がある。」 ゲイ・ラングランド(クラーク・ゲイブル)『荒馬と女』 せ、説教くさ…。 でも改心ニノが書けてとても幸せです。とても。 ニノママは美人だといいなあ…。 -
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